むしゃくしゃしてやった、今は反省…してないわよっ!




そう、きっかけは至極ささやかなもの。

気分なんてものは、ふとしたことでいとも簡単に逆方向へとひっくり返る。

快から不快へ、良から悪へ。
人の心はとかく単純にして複雑で、
一方にはすぐに覆されるくせに逆方向にはなかなか向いてくれないもの。

具体的に言うと……そうね。

機嫌良く過ごしている人を不愉快な気分にすることはけっこう簡単な事だけど、
逆に一旦へそを曲げてしまった人物を上機嫌に持っていくには、
あれこれと策を弄する必要が出てくるって話。
かも、ね。






夏の強すぎる日差しをほんの一時避けようと街道脇の森の中へと足を踏み入れて、
あたしはそこでいい感じに寝っ転がれそうな木陰を見つけた。
広々と枝葉を広げたリンゴの樹には硬くて小さな緑色の実がたくさん生っていて、
風に揺られる度に青くて爽やかな香りが鼻先をくすぐる。

「ね、少しだけ休憩しましょ。 こんなに暑くちゃ次の街に着く前にへばっちゃうわよ」

熱中症にでもなったら大変だものとあたしが言い、ガウリイも額の汗を拭いながら
こうも暑くちゃたまらんからなぁと頷いた。



人の手が入っていないリンゴの樹は摘果をしていない為で数ばかり多くて、
食べられる部分はほんの僅か。
ちまちま食べられる部分を探す手間をかけるまでもなく、せいぜいこうやって見た目や
香りを楽しむ位しかできないんだけど、野趣溢れる風情って言い方をすれば
もしすると印象が換わる、かもしれない。






土の上にマントを広げてその上にごろりと身体を横たえると、布越しにでも
ひんやりと冷たい感触が背中に当たって、あたしはほぅっと大きく息を吐いた。

「ん、ちょっと疲れたか?」

ガウリイは装備は外さないまま樹の幹にもたれかかるようにして座って、
のほほんとあたしを眺めて微笑んでいる。

ぽすんと胡坐をかいた彼の足の間には、そこらに落ちていたのか
青くて硬くて小さな小さなリンゴが一つ。
手慰みのつもりなのか、彼はその食べられもしないその実を手の中でいじくり弄んでいた。

「もう一つ、二つあったらジャグリングでもできるんじゃない?ガウリイ器用だし」

つい、と、指先を天に向ければ、あたしには葉の影から覗く果実が見えるんだけど。

「遊ぶ為に食いもしないものを摘んじまうのは、どうもな」

小さく笑うと、ガウリイはリンゴをポケットに押し込んで自分の荷物を手繰り寄せた。

荷物袋に吊るした水筒を手にして、ちょっと振って。
それから蓋を開けて片目を近づけ中を覗いて、しまった。という顔をした。

「……水切れ?」

「ああ、すまん。ちょっと分けてもらえるか?」

そういえば、ガウリイもやたらと朝から水筒に手をつけていたなと思い出しながら、
あたしも自分の水筒を手繰り寄せて……軽い手ごたえにがっかりした。

ああ、あたしもあらかた飲んじゃったんだっけ。今日は本気で暑かったし。

諦め悪く振ってみても殆ど空っぽの水筒はぴちゃんと小さな音を立てるのみ。

「……水場、探してくるわ」

すっくと立ち上がったガウリイは、あたしの手から水筒を取り、
自分のと一緒にぶら下げてさくさくと森の奥へと入っていった。

なんとなく出遅れたあたしは一人置いてけぼりで、どうにも『もやっ』としてしまう。

追い討ちを掛けるように、鬱蒼と生い茂る木々があたし達の間に立ちふさがって
完全にガウリイの姿を隠してしまった。

こうなってしまっては今から彼を追うのは得策ではない。
近くにいないのは、彼の立てる音が聞こえなくなった事で明らかだから。

しかし、果たしてガウリイはこの奥に水場があると知っての行動だったのか?
さっさかと迷いなく奥へと進んでいった背中を思い出し、とりあえずここは
任せてみるかと、暑さにやられた身体を横たえた。

連れて行ってもらえなかった寂しさと、さりげない気遣いでもって
労わられた嬉しさに、胸の奥がきゅっと疼く。

ここのところすっかりおなじみとなった感覚ごと、両の腕で自分の身体を抱きしめながら
あたしは重みを増す瞼を降ろした。






「……よく考えたら、『浄結水』を使えばよかったんじゃない」

ガウリイの帰りを待ちながら、うとうとと夢と現実の境界線を彷徨っていたあたしは、
ふと、そんな事を思いついた。

この呪文で出した水は、不純物が混じっておらず安全な代わりに旨みに欠ける。
一般に「美味しい岩清水」などと銘打ち街中で湧き水を販売して
立派な商売として成り立っている理由は、雨水が土に染み
硬い岩盤の層を潜り抜けるうちに、微量の不純物が溶け込むからだ。

つまるところ、『浄結水』とは空気中から魔法で水分を抽出しする呪文であり、
その過程においては空気中に浮遊する僅かな量の不純物しか混じる余地はない。
つまり、ほぼ旨みも何もない真水が出てくることになる。

混じりっけのない水は怪我人の傷口を洗ったりするのには便利だし、
飲むには味気ないってだけで飲用にしてもまったく差し支えはない。

ちなみにあたしがこの呪文を唱えた場合、最大で水がめ一杯の水を作り出すことができる。
それこそ飲むも浴びるもなんでもござれ、だ。

一応水場が見つからなかった時の為に支度しておくか。
とはいっても水を受ける器はガウリイが持っていってしまったし、
他に水を貯められる入れ物などある筈もない。

……結局はガウリイ待ちってことじゃない。

一人ゴチて天を仰ぎ見ると、一番日当たりの良い枝の先に、
ほんのりと色づいた果実があるのに気付いた。

あの位熟れていたなら、食べてもきっと美味しい筈。

昼寝を続けるには眠気が足りず、さりとて留守番中にどこかにいくこともできやしない。
置きっぱなしの荷物の事もあるし。

あたしは、浮遊の術を使ってほんのりと赤く色づき始めた果実をいくつか収穫しつつ、
どの辺りまでガウリイは見に行ったのかなと辺りを見回したが、
当然のことながら木々に隠されガウリイの姿なんてまるで見えず、
結局しぶしぶと元の場所に戻って座り込んだ。



あれほど暑い熱いと騒いでいた真夏の熱気は今だ衰えを知らないが、
木々の生み出す影の内に潜ってしまえばなんてことはない。

ただ、あまりのんびりしすぎると次の町に着くのが遅くなる、遅くなると
宿にありつけない可能性が出てきて、宿にありつけなければ野宿という選択しかなくなる。

「何が悲しくて街についてまで野宿をしなきゃならないのよ!」
ぷうっと頬を膨らませて、じりじりとガウリイの帰りを待ちわび、
がりりっと親指の先を齧る。

まだ起きてもいない件について真剣に怒る事ができるのは、
偏に女の子らしい理由としか言いようがない。

「これ以上べたべた汗臭くなってたまるもんですか!」

とにかくガウリイが帰ってきたら早々に街を目指して今夜の寝床を確保して、
汗とほこりにまみれた身体の汚れを綺麗さっぱり洗いたい!!

それにしても、空の青いことといったら!
雲一つ浮かんでいやしない。
さっと一雨降ってくれれば、気持ち良いかもしれないのに。
そう、夕立みたいに、ざあっと、景気良く。



ざあっと。




ふと、あたしは自分の手首を見た。

夏の光を受けて輝きを増す魔血玉が、悪戯心をそそのかす。

そして。
















「うっひゃああああああ!!」

バケツをひっくり返したような水を被ったらしいガウリイの悲鳴が、
あたしの耳に心地よく響いたのだった。




くしゃくしゃにしてやった、オレは反省しないからなっ!



「……なにがどうしてこうなった」

全身くまなくずぶ濡れとなったガウリイは、その場で突っ立ったまま呟いた。

ぱたたたたた……と髪から服からしたたる雫の音は連続していて、
すっげぇ大量に被っちまったなぁ……とは判るのだけど。



空を覆わんばかりに広がる枝葉の間から、満杯の水桶を景気良くひっくり返したような
水の塊が落ちてきたのは、ガウリイが森の奥へと踏み込んでから小一時間程経った頃。

過去の記憶を頼りに茂みを掻き分け辿り着いた水場は、残念ながらすっかり枯れた
『元』水場、現ひび割れたただの窪みと成り果てていた。

渇きに喉がひりつくのを感じながら、とりあえず一人残してきた相棒の元に戻ろうと
踵を返して、あともう少しで。という場面でのこの災難だ。

べしゃべしゃに濡れた服に口をつけて、ジュッと音を立てて啜れば
体温で僅かに温められた水分が唇を潤してくれたが、
あいにくと喉の痛みまでは癒してくれなかった。

どうせ有り余ってるなら、水筒に落ちればいいものを。

二つ一緒にぶら下げた軽い水筒を思って、ガウリイは大きく肩を落とした。
ブーツを汚すぐずぐずの泥水が恨めしい。

さんざん待たせた挙句、空手で帰ったらリナは何というだろうか。
それもこんな格好で。



濡れた肌を夏の日差しがジリジリと焼く。
まさに強火の遠火で炙られているような感覚。

空は相変わらず青いままで、雲ひとつ浮かんでいない。

なら、さっきの土砂降りは、あの大量の水は一帯どこから来たのだろうか。
犬のように頭を振ると、重身を増した髪がべしゃりと鎧に張り付いた。

とりあえずなんとかするかと水筒を脇に置き、ガウリイは髪を一筋ずつ掴んでは
握って、牛の乳でも搾るように髪の水分を絞っていった。

……くそ、喉乾いたなぁ。

手から落ちていく水分を恨めしそうに眺める。
流石に衣服や髪から搾り取った水を飲みたくはない。
さっき服から啜った水も、僅かな土の味と汗の塩辛さが混ざっていたのだ。
清水とは言わないが、せめてもうちょいマシなもんが良かった。
そういやリナもそろそろ待ちくたびれてるんじゃなかろうか。

そこでハタと気がついた。

晴天の空からいきなり降り注いだ水。
それも自分の周辺だけを、まるで狙い打ったかのように。

耳を澄ませばケラケラ聞こえる笑い声と、ジタバタと地面を叩く軽い音がその証拠。

「……リナの奴」

イラつきと同時に妙なおかしさが湧いて出て、どうしたものかと苦笑う。
てっきり寝ているものだと思ったのに、あのじゃじゃ馬には
ツレの帰りを大人しく待つ、という選択肢はないらしい。

もう一度頭を振って水気を飛ばし、それから適当に結わえて一つに纏める。
さてさて、悪戯には悪戯で返すべきか、それとも小言で済ませるか。

手の中の空っぽの水筒が揺れる。

空は青くて、ひたすら高い。
渡る風が濡れた肌から熱を奪っていくが、元が温いもんだから
たいして涼しくなりようもない。

次の町に着くまでには、もう一頑張り歩かなくてはならないはずだった。
こんなナリじゃあ飛行呪文で運んでもらうことも厳しいだろうし
自力で服を乾かすにしてもある程度時間はかかっちまう。

道々チラ見しては意識しないようにしてたんだぞ、オレは。

無防備に突き出した舌にも、肌蹴たシャツの奥にも
投げ出した裸足の真っ白い足先にもな。


あー、もー、なんか、一人で気張ってたのがアホらしくなってきた。



にやりと口元を歪めると、大股で元来た道を駆け抜けて
ひーひーと笑いつかれて転がっている相棒の前に飛び出した。

「あ、おかえ、ぎゃあああああっ!!?」


腕の中からの絶叫は、オレには非常に心地良かった。
濡れ鼠、いや、リナ曰くの濡れクラゲにとっ摑まっちまった方はたまらんだろうが
自分でやった事の責任はしっかり取って貰わんと。

「聞いてくれよ~、いきなり雨がどしゃ~っと降って来やがってな。
おまけに水場は干上がっててなくなってるわ、人の不幸をゲラゲラ笑ってる奴もいるわで、
ちょっとばかり傷ついてるんだぜ~」

白々しいセリフを吐きながら、ぐりぐりとリナの頭を胸板に押し付けてやる。
ついでに髪にも手を突っ込んでしっちゃかめっちゃかぐちゃぐちゃに。

「にゃああああっ!?」

猫のごとき甲高い悲鳴がしようが、じたばたじたと暴れようが
そんなもん気にしてやるものか。

どんなに可愛かろうが、仕掛けてきたのはそっちからだし
逆襲されてもしょうがないだろ、ん?


「ちょ、ちょちょちょちょ、ガウリイっ!
悪かったから、お願いだからはなしてってば!!」

慌てすぎて照れも動揺もまるで隠せていない可愛い相棒。
きっと真っ赤になってんだろうな~と思うと嬉しくてしょうがない。
濡れて肌に張り付くシャツ一枚の至近距離、
もちろんお互いの体温だってもろ分かりだもんな。

「お前さん暑がってたな~って思ってさ、ちょっとばかし涼しさのおすそ分けだな」

ついでに彼女の上着の襟を引っ張って、白い背筋に水の滴を落としてやれば
面白い位にビクンと跳ねて楽しませてくれる。

「水、出してくれるよな」

それから今夜は野宿だぞ、服乾かしてたら移動の時間が取れないからなと宣告すれば
そんなもんパッパと乾かしてあげるから、ときた。

「乾けばいいってもんじゃないだろ、ん?」

腕を広げて悪戯娘を解放、すると見せかけて。
逃げを打とうと捩った身体を捕まえて、振り向かせて押さえ込んで
驚きに開いたままの唇に青いりんごを齧らせる。

そうして、むぐむぐと口を封じられた悪戯娘さんは、
水も滴るくらげさんにとっつかまってしまいましたとさ。