その女性はあたしの少し前を、一歩一歩、確かめるようにして
朝露に濡れた大地の上を歩いていた。
緩く巻かれた蜂蜜色の髪は肩の辺りで揺れていて、
両手はバランスを取ろうと身体からやや離れている。
例えるなら、異国の寒冷地に住むという飛べない鳥のように
よちよちとした足取り。
しかし、彼女には不安の色などまったくなかった。
いや、ここからでは表情を窺い知る事はできないのだが、
きっと今、彼女は笑っているに決まっている。

「リナさん! 土って、こんなに踏み心地のいいものだったんですね!!」

子供のように無邪気な歓声をあげて、更に一歩。
しかし、やや歩幅を広く取りすぎたのか、ぐらりと身体が傾いで・・・
ジタバタと両腕を振りまくり前後左右に上体を揺らせて
なんとか転倒だけは免れた・・・らしい。

バツが悪そうに、そっと右手をあたしに差し出してきたのは
HELPの合図。

あたしは何も言わずにその手を握り支えてあげると
透けるほどに白くて、まさに白魚のような手指が
グローブ越しの手をしっかりと握り返してくる。
傷一つない、荒れもない彼女の柔らかな手は
未知の世界への興奮と、確かな恐れに小さく震えていた。



**********



「・・・護衛の依頼と聞いていたのですが」
先日、たまたま立ち寄った協会で、あたしは
『ぜひ君に頼みたい』と、名指しである仕事を請け負う事になった。
この場合、協会からの指名=よほどの理由がない限り少なくとも
その場で断る事はできないといっても過言ではない。
更に、理由があっても一旦内容を知ってしまったら
ほぼ100%受けたも同然。
依頼を断る=協会内での扱いが悪くなる
この公式がいとも簡単に出来上がる。

旅の身なので、長期に及ぶ依頼は引き受けかねると
伝えたものの、内容からさほど拘束期間は長くならないだろう
との説得(という名の拒否権剥奪)を受けて、今に至る。



**********



「リナさんっ!! わたし、125歩も歩けました!!」
一人で何とか振り返り、がっしりあたしの両手を握り締めつつ
興奮気味に話すフレアに「良かったわね」と微笑み返し、
少し休憩にしましょうと提案する。
彼女の了承を受けて、羽のように軽い身体を抱きかかえて
浮遊の呪文で宙に浮かひ揚がると、彼女は決まって幼子のような
無邪気な笑顔をみせるのだ。
そのまま屋敷の窓から彼女の部屋に飛び込む。
行儀が悪いと怒られそうだが、ムダに広すぎるこの屋敷では
いちいち玄関に回っていたら時間がかかってしょうがないのだ。

「お嬢様、お疲れ様でした。 さぁさ、温かい香茶はいかがですか?
是非リナさんもご一緒に」
整えられた室内には、常に彼女付きのメイドが控えていて
穏やかな笑顔と慣れた手つきであれこれと世話を焼いてくれる。
彼女はいつでもフレアの身の回りに気を配りながら、
密やかな影のように存在しているのだ。

「ありがと。 いただくわ」

浮遊の術を微調整してフレアを彼女専用の椅子に座らせて
あたしも手近な椅子に腰を下ろした。
目的はしばしの休憩と今日の予定の再確認。

「もっと頑張れば、私、予定よりずっと早くに嫁げそうです」

フレアの花も綻ぶ無邪気な笑みに、一切の毒気はない。
まるで世間を知らない、風雪に晒される痛みを知らない娘には
嫉妬だの、ねたみそねみといった感情はない。
今あるのは、強い感謝と祈り。そしてある願いだけ。

「少しだけお昼寝をしてから続きをしましょう・・・ふぁ・・・」
先ほどの歩行訓練で疲れてしまったのか、小さなあくびを一つ落とすと
フレアは『ぽてんっ』とテーブルに突っ伏して
そのまま眠ってしまった。

ベッドに移した方がいいんじゃないかとメイドさんに
聞こうかとも思ったが、どうせいつものように
「お嬢様のお好きなようにさせてあげて下さい」と
止められるだけだと理解っているので、あたしは上掛けを
ベッドから剥ぎ取り、彼女の肩に掛けるだけに止めた。

彼女が眠ってしまうと、すっかりやる事がなくなってしまうので
あたしは読書、メイドさんはレース編みで時間を潰す。
目覚めた時、彼女が一人にならないようにと目覚めの時まで
ずっと傍に。


彼女の願い。
それは自分の力だけで、自分の足でこの屋敷の敷地内から出る事。
事情を知らない人ならば、彼女の願いを『何て簡単な!』と笑うだろう。
だが彼女にとっては間違いなく困難な願いであり、
それを実現する為には多大な努力が必要だったが
労を惜しまず努力を重ねる彼女ゆえに、その日はそう遠くないと
見積もってはいたけれど。



数日後。
とうとうその日は、来た。

「さあ、参りましょう!」
空気の澄んだ朝、晴天の空を眩しげに見上げ。
真っ白なパラソルを手に、メイドさんが用意した手縫いの真新しい
白いワンピースとサンダルを履いて、彼女は軽やかに一歩を踏み出した。

「ああ、何て嬉しいんでしょう。 やっと私は解放される!! 
自分の意志でここから出て行けるんだわ!!」

興奮からなのか、フレアは階段で一瞬よろめいたものの、
その後はしっかりとした足取りで一直線に前へ前へと歩みを進めて
わき目も振らずに外界へと繋がる門を目指した。
やや後方に付き従うメイドさんは、相変わらず影のように
一言も発さず、大きな荷物を抱えて彼女の背中を追うのみ。

今や屋敷に残されているのは、あたしと一組の男女だけ。
広く冷たい玄関ホールの真ん中で、取り乱し泣き喚いている
二人はしかし、座り込んだまま一歩も動こうとしないのだ。
去り行く彼女に手を伸ばす、たったそれだけの行為で
彼女の決意を動かそうなんて、片腹痛いったら。

「どうしてお前は行ってしまうの!? 何が不満だというの!?
美味しいお菓子も綺麗な服も芳しい花々も、
お前の望む物は皆、叶え設えてやったというのに!!」

「何が欲しかったと言うんだ!!
これ以上、何を望んだと言うんだ!!
お前は聖別された肉体と魂を持つ稀有な存在。
場にいるだけで富をもたらす優秀な娘。
だからこそ私達は何不自由のない生活をさせてやっていたというのに」

総レースのハンカチを手に、ハラハラと大粒の涙を零す貴婦人と
蒼白な顔を俯けて項垂れている壮年の紳士には、
最後まで彼女が望んだものがなんだったのか、判らなかったらしい。

「・・・幸せなんて、そんな簡単なものじゃないわ」
役目を終えたあたしは、愚かな人達にとびっきりの呆れ声で言ってやり。
「じゃあ、あたしもこれで失礼させていただきます」
簡単な挨拶の言葉を吐き捨て屋敷を後にした。



観音開きの重い扉をガッチリ閉めて、まっすぐ門に向かって駆け出すと
すぐに白い姿と彼女に付き従う黒い姿が視界に飛び込んできた。
あたしは走る速度を緩めないまま、脇目も振らず二人の横を
駆け抜けて、豪華なだけの門をくぐって街道に飛び出した。

敷地と外との境界を越える瞬間、ビリッと軽い痛みを感じたけれど
この程度の結界では、もはや彼女の歩みは止められまい。

普段と変わらぬゆっくりとした歩調で、フレアがここに辿り着いたのは
あたしが路傍の岩に腰掛けてから数十分後。
この距離はかなり辛かったのか、白い額にうっすら汗を浮かべて
ハァフゥと荒い息を吐いている。
数歩引いて彼女に付き従うメイドさんは平素のまま。

相変わらず汗も掻かず衣服が乱れる事もない。

「さぁ、そこを超えればあなたは自由よ。
ただし、二度と元に戻れなくなる!
それでもあなたは、そこを越えるつもり!?」

声を張り上げ叫んだあたしに向かい、フレアは顔を上げ
清々しい笑顔を浮かべて笑って。
「わたしは、絹に包まれたまま飼い殺されるよりも
土や藁にまみれる生を選びます」と言った。

それは、心からの誓いであり、彼女が真に欲した望み。
それから、彼女はちらりと背後のメイドに視線を投げて、
長年仕えてくれた労をねぎらう言葉を掛けると
名残惜しげに握手を交わして別れを告げた。

「穢れに触れれば能力(ちから)を失うのだと、
彼らは私に指一本触れようとはしなかった。
純潔だったあなたの自由をも奪い、私の世話をさせる為の贄として、
この屋敷から一歩も出さず閉じ込めて」

彼女の髪に手に、触れることを許されていたのは
生まれてこの方お付きのメイド、ただ一人だったのだ。
あたしが、ここにやってくるまで。

「・・・本当は。 私、とっくの昔に穢れていますのにね。
失うもなにも、母の胎内から出てきた時に
私は全身隈なく彼女の肌に触れたでしょうに。
滑稽にも、親である彼らがそれを忘れていらっしゃる。
でもあなたが傍にいてくれたから、私は孤独に喰われずに済んだ。
あなたの存在がどれほど私を癒した事でしょう」

本当に、ありがとう。
どうかお幸せに!!

最後の叫びと同時に、フレアはついに自らの意志で。

躊躇なく、境界線を越えた。



・・・それは、夢のような光景だった。

彼女の白い足先が、門扉線上を越えた瞬間。
外界に晒された部分から、華奢な輪郭がみるみる透けて塵と散った。
キラキラと日の光を反射ながら、靴もろともに崩れ去り。
散った箇所を起点に侵食は深まって、フレアの身体を砂細工のように崩していく。
それでも彼女は笑ったままで境界を越えて・・・
両脚を失って、前のめりに倒れた身体が光と混じり合い、
音も無く砕けた身体は、あっという間に風に散らされ消えてしまったのだ。


後に残ったのは、仕えるべき主を失ったメイドが一人。
影のように薄っぺらな女が一人きり。

いや、もう違う。
主が塵となったというのに一切動じる事もなく。
一人悠然と境界線を踏み越えた彼女は、静かに微笑みを浮かべ
軽やかな仕草で振り返ると、屋敷に向けて優雅に一礼してみせたのだ。

「長きに渡り本当にお世話になりました。 
ご夫妻共々、どうぞ末永くお暮らし下さいな。
・・・あの方の欠けたこの屋敷で、絶望し飽きて朽ち果てるまで」

一呼吸ごとに大地に映る影が色を増し、厚みを増すように
纏う存在感が重くなる。
どれほど傍にいようと希薄だった彼女の気配が
今ははっきりと、生きている人間のものとして感じられる。
主に従うようにと奪われた、彼女自身の身体が戻ったのだ。

消えたフレアの残滓だろう光る塵を両手で集めて掬いあげ
愛しそうに目を細めた彼女と顔を合わせて初めて。

あたしは、彼女の瞳が消えた娘の髪と同じ色だったと知った。



*************



「んで、結局どういう依頼だったんだ?」
ガウリイがトレニア鶏のグリルオレンジソースがけを
パクつきつつ、向かいで首を傾げている。
長期になるのはできるだけ避けたいと思っていたのに、
結局彼と合流するまでに2週間もかかってしまった。
久し振りにまじまじ相棒の様子を観察してみると・・・。
うん、やっぱり顔だけは良い。
いや、もちろん性格も良いけど記憶力は・・・
うん、依頼内容くらいちみっとだけでも
憶えてるかな?とか期待しちゃったあたしが馬鹿でした。

「ガウリイにでも判るように説明するわね。
依頼内容はメイドさん、レイラさんをあの屋敷から解放する事。
レイラさんはフレア、外に出た所為で消滅した子の世話をする為に
幼い頃から今まであの屋敷の虜にされていたの。
で、このたび目出度く彼女を救出できたから、あたしは
報酬を貰ってめでたしめでたし」
久し振りに味わう温かな料理に手を伸ばしつつ、本当に端的な
説明をしてはみたが、さて、ガウリイの反応やいかに。

「えーと、じゃあリナは誰から依頼を受けたんだ? 助けたメイドの人か?」
先ずそこから来たか。

「依頼者は消えちゃったフレアさん」

ビッとフォークを差し向けて、ガウリイの意識をこっちに向けさせてから
お皿の上に並んだポテトを使って、もう少し突っ込んだ説明を始める。

「先ず、依頼者フレアさんは人間じゃない。
彼女は限定された場に存在だけで富をもたらすゴースト。
ここまではいい?」

神妙顔で頷いたのを確認してから、先を続ける。

「あんた、座敷童子って聞いた事ない?
フレアさんは生まれてすぐに亡くなって、本来自然に浄化される筈
だったのに、どんな手を使ったのか流転の理を捻じ曲げられた
結果、強制的にあの屋敷の守り神にされちゃったの。
んで、福を呼ぶありがたい娘神様の機嫌を損ねないように
世話係の名目で生贄にされたのがレイラさん」

それから、要点だけを掻い摘みながら
あの屋敷について話していたら。
いつの間にやらガウリイの奴、テーブルに突っ伏したまま眠ってやんの。

ま、退屈だったのか元々興味がなかったのか。
どっちでも大差ないような気もするんだけどね。

とにかく、あたしがここに戻った事を喜んでくれた。
今はそれだけで満足する事にしよう。

自力では運べない大きな身体を、浮遊で浮かせて静かに部屋へと
運び入れ、ついでに眠りの術も上掛けして。
あたしは、自室から荷物袋を持って彼の部屋に。
協会への報告書を作って提出して、全部の片がついたら
もう、この街とはおさらばだ。

フレアは精霊に近い存在として
あの屋敷に、実の両親の手で閉じ込められていたのだ。
そして失われている彼女の肉体を再現する為の
生体エネルギーを搾取されていたのが、レイラさん。

最初こそ、夭折した娘を哀れんでの行動だったのかもしれないが
娘が財を引き寄せる存在だと気づいてからというもの
彼らの愛情は娘自身から、彼女が引き寄せる金銭にのみ注がれるようになり。
理を歪め続けた末に、負債は何倍にも膨れ上がって押し寄せるだろう。

いつか聞いた、貝の中の海老の話を思い出す。
小さな海老が2匹、二枚貝の合わせ目から内側に滑り込み
そのまま内部で成長して、いつしか出られなくなった、という童話。
彼女達は互いに助け合う事で殻の内から飛び出すことができたけど
覚悟もないまま彼女達に捨てられた人の運命や如何に。

お互いの幸せを掴む為には必要なのだと、
悲しみを押し殺してあたしを呼んだ二人のように
本当に大切なものを見つける事が出来たならば
自ら生み出した牢獄から抜け出せる日もくるかもしれない。

・・・この逸話を以って強欲を諌める教訓とし、
人々の信仰心を深める事は可能であろう推察します、っと。

結構な分厚さに成長した報告書を細紐で束ねて、部屋を出る。
手には、あの時レイラさんから受け取ったフレアの
遺骸・・・とさえ呼べぬ、輝き続ける粉末を封じた小瓶。

突き詰めれば、望みは唯一つとあたしも知った。

永遠なんて望まないけど。
限りある時間を少しでも長く一緒にいたいと願いながら
彼女の欠片を純白の宝石護符に封じ込めた。