ゆらりと薄暗い天井へと伸びていく紫煙を、あたしは視線で
ボンヤリと追いかける。

隣に座った男の口元には細く巻かれた葉巻が赤い花を咲かせている。

フッと口から白い煙を吐き出して、男はあたしを見つめて言った。

「今夜君に会えた幸福に乾杯」と。

わかっている。

ここで「さっむ〜!」とか「いつの時代の人間よ!」とか言っちゃあ
いけない事くらいわきまえている。

まぁ、ここが普段利用するような場末の酒場とか宿併設の気楽な
食堂ってんならそれもアリかもしれないけど。

今あたしがいるのは、いわゆる上流階級とやらの人々が集う
「一見さんお断り」のバーなのだ。

そしてあたしの目の前でまた、一般人には毒でしかない煙を吸い込んだ男は
優男全開のなりをしていても、この街の実力者だったりする。

「それで、今回の依頼についてなんですが」

チラリと周囲を見渡す。

あたしの後方の席には着飾った女が2人と壮年の紳士が一人
ポーカーに興じている。

彼の右側、カウンターのどん詰まりには、チビチビと度数のきつい酒を
舐めている白髪の老人。

入口近くのテーブルには、俯いて水煙草をふかしている若い男。

その全員に共通しているのは「煙を愛している」という事。

誰も彼もがお気に入りの葉巻だの煙草を手に談笑し、
酒を煽り紫煙をくゆらす。

ここにいるのは、最早医者にも見離されるほど重度の中毒患者たち。

「ああ、アレを手に入れてきてくれるのならば
報酬に糸目はつけない。 どうせ私の財産を引き継ぐ者もない。
ならば、自分の持ち物をどう使おうが、誰にも咎められる筋合いもない」

彼の視線は、前方に並べられた酒瓶を見ているようで
実は何も見てはいない。

彼のとび色の瞳は、遠く過ぎ去った思い出だけを見つめているのだ。

「いいんですね? 今ならまだ、引き返せますが」

「ああ、かまわん。 ここにいる連中も皆同意見だ」

「では、今夜早速仕事に取り掛かります」

「・・・ああ。 よろしく頼んだよ」

溜息と共に吐き出される白い煙。

「・・・すまないね。 もう外に出たほうがいい、
いくら毒に耐性があるとしても、身体に良い訳はないのだから」

疲れきった表情を浮かべながら、伸ばされた彼の指はス・・・と店の入口を指し示す。

「では、店を出てすぐに仕事に取り掛かります」

「ああ、頼む。・・・どうか早くに頼む」







店を出て外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

店内の淀んだ空気が体外に排気され、冷たい夜気が肺に流れ込み
嫌な何かを洗い流してくれる。

ふと気になって、髪を一筋手に取って鼻先に近づけてみても
既に麻痺した嗅覚は何も伝えてはくれず。

宿で退屈をもてあましているであろう相棒には悟られぬように
帰る前に湯浴みを済ませようと心に決めた。





魔道士協会には、一般人にはけして知られる事のない「裏の顔」がある。

違法行為というわけではないのだが、褒められた行いでもないので
あえて人前で口にする者はない。

あの店にいたのは、皆どこかに疾患を抱えている人達。

そして、快癒の見込みから見放された人達。

彼らが吸い込んでいた煙には、かなりキツメの麻酔作用があり
彼らは我が身を蝕む病魔の苦痛から逃れる為に、毒と判って煙を摂取し続けるのだ。

だが、きつい薬には必ず副作用が付きまとう。

それは記憶の混乱であったり、過去の幻影が垣間見えたり。

特に視覚と聴覚に顕著な影響が見られるらしい。

だが、彼らは言う。

「それこそが人生最後に贈られたささやかな幸福」なのだと。

過去に出会った人物の声や姿は、闘病の果てに疲れきった
彼らの心を一時でも癒してくれるのだと。

「あの頃の自分と、青春の日々をもう一度体験できるのだから」と
うっすら微笑んで見せるのだ。

だが、長い間同種の麻薬を摂取し続けた肉体は、いつしか毒に耐えうる
抵抗力を発揮してしまった。

それに気がついた時、彼は心底哂ってしまったそうだ。

病魔の一つも退散させられない身体が、ささやかな安らぎすらも奪って行くのか、と。






あたしは一人、深い森に分け入っていく。

彼らの苦痛を癒す薬草を取りに。

確実に余命を縮めても構わないから、どうか良い思い出の中で
朽ちさせてくれと、静かに請う彼らの願いを叶えるべく
あたしは一人で依頼を受けたのだ。






フワッと、風があたしの髪を撫でて。

散った髪からかすかに香る紫煙の残り香。






早く仕事を済ませて帰ろう。

誰に言うでもなく心に決めて、あたしは歩く速度を速めたのだった。