魔道書






洗い晒しの髪を、風の呪文を唱えてふんわりと乾かす。

腰掛けたロッキングチェアがギィと鳴る。

あたしの手の中には一冊の魔道書。
この町の魔道士協会で借り受けてきたものだ。

長い年月を経て、端の方は装丁が擦り切れていて。
いったい幾人の魔道士がこれを手に取ったんだろうかと、あたしは思いを馳せた。






サラサラと、水の流れる音が聴こえる。

あたしの、頭の中で。

目を閉じ耳を澄ませると、遠くから誰かを呼ぶ姉の声と。
その後ろから、高いトーンの笑い声が聴こえた。

『・・・かあさん』

楽しそうに笑う母の声。
穏やかな父さんの声も聞こえる。



故郷の空は遠く果てなく青く広がりながら、豊穣の秋を待ち焦がれているのだろうか。

夢のように、頭蓋の中で垣間見る故郷の人々の暮らしは記憶の中そのままに。

知人の笑顔も、近所の悪がきの泣きっ面も小麦畑の緑の波も、
葡萄畑の連なりも記憶の中の風景そのまま。

理知的な微笑を浮かべる姉は、今日も魔道士協会に足を運ぶのだろう。

ふっと、母さんがこちらを見た。

ううん、そんな事があるわけないのに。

あたしが見ているなんて、知りようもない事なのに。



なのに。



こちらを向いたまま、母さんは微笑んで人差し指を口元に持っていくと、
ゆっくり、一音ずつ丁寧に唇を動かした。

「げ・ん・き・で・い・ま・す・か  こ・ち・ら・は・か・わ・り・な・い・わ」

かあさん!!

「あ・な・た・の・み・ち・が・み・つ・か・る・ま・で・は  
つ・ら・く・て・も・が・ん・ば・り・な・さ・い」

うん・・・うん。分かってる。

「あ・た・し・た・ち・は  ずっ・と  まっ・て・い・る・か・ら」

・・・うん、待っていてね。

母さんが父さんと出会ったように、あたしも『何か』を見つけてくるから。

それが何なのかはまだ全然見えないけれど。

故郷を離れて一人で旅を始めてから。今まで見えなかったもの、
知らなかった事やいろんな人々にも出会う事ができたの。

母さんの後ろから、父さんが歩いてくる。

母さんが振り返って、ほらほらとあたしの方を指差してるけど、
父さんは判らないんじゃない?

・・・ぷっ。

やっぱり何の事かわからなかったらしく、首をかしげている父さんに
母さんのスリッパが炸裂!
ああ、相変わらず夫婦仲がいいったらありゃしないんだから。

耳を引っ張り引っ張られてながらごしょごしょやってるあの2人が、
かつてデモン・スレイヤーズと呼ばれていただなんて、
実の娘のあたしにも今だに信じられない。

でも、旅の道程で耳にする昔語りや伝承の中に、母の名を
多く見つけるのは紛れもない事実。

正直、悪い噂もたくさんあったりして、
父さんの言ってた通りだと笑っちゃうんだけど。

・・・まぁ、確かに世界は新鮮そのものです。

美味しいものもたくさん食べているし、ちょっとした事件やらトラブルに
巻き込まれる事もあるけれど。もう少し、頑張ってみます。






パタンと魔道書を閉じると、頭の中の故郷も消える。

今日あたしが借りてきたこの本は通称「移し鏡の書」と言って、
本を開いた者のもっとも見たい場所を見せてくれると
評判だったので借りてみたんだけど。

まさか、あっちに気づかれるとは思わなかったな。
さすがは天才魔道士リナ=インバース、我が母ながらすごい人だ。

おっと、結婚してからはリナ=ガブリエフ=インバースだった。

言い間違えるとすぐ父さんが拗ねるんだもん。
「一応オレは婿養子じゃないんだぞ?」って、ね?

さて、明日はどこに向かおうかな。

ここから近いし、父さんと母さんが最初に出会ったっていう、
アトラスの方に行ってみようか。






寝る前に顔を洗おうと洗面器に水を注ぐと、水面にあたしの姿が映る。
母親譲りの栗色の髪と、父親譲りのスカイブルーの瞳。

そっか、こんな所にも故郷はちゃんとあったんだ。

明日朝一番に本を返却に行こう。それから食料を調達して・・・それから・・・。

そんな事を考えているうちに、あたしはすっかり眠ってしまった。