真夜中


トーマス・クランの日記より





静かな冬の月夜に私は一人村の散策に出かけた。

寒さに白く濁る吐息をふうふうと手の平にかけながら、レオナルドの牧場を右に曲がり
しばらくの間、真っ暗な道行を一人楽しむ。

空を見上げれば冷たい空気のお蔭で一段と美しく輝く星々に目を奪われ、
耳を澄ませても聞こえてくるのは遠い厩舎からの嘶きだけ。

家を出る前に一杯引っ掛けておいたのだが、それでも顔やら指先は徐々に体温を奪われていく。
参ったな、もうちょっとだけ時間を潰してから戻りたいんだが・・・。

実は先ほど、最愛の一人娘マレリーンと口論となってしまい、自らの頭を冷やす為にと
真夜中の散策に出かけてきたのだからして、このまま家に帰るのもどうも気まずかった。






この夜私は、生涯できっとただ一度のピーピング・トム(つまり覗きだ)となってしまった。

いやいや、悪気はなかったのだが結果としてそうなってしまったのは
言い訳しようのない事実で。

この事については生涯口を閉ざした方が、私と私に関わる者総てにとって
幸いであろうと思われたのだがそうするにはあまりにも好奇心が出口を求めて
苦しがるものだから、あえてこうして日記に記そうと思う。

私の死後、これを発見した者はまず彼らの生死を確認ののちに、
発表するなり隠匿するなりすればよいと思う。

だが、彼らが存命の場合にこれを公開する事は、それは即生命の危険に直結するという事を
頭の隅に置いてもらいたい。

では、そろそろ唇が疼き出してしまったので、その疼きをペン先へと逃がす事にする。







サクサクと薄く積もった雪を踏みしめつつ、私はロクサーヌ・アレムの経営する
村唯一の宿兼酒場にやってきていた。

普段ならばこんな時間に営業などしている筈もないのだが、今晩の彼女も
きっと心中穏やかではないだろう、ならばきっと起きているだろうし、
そうであるなら声をかければ扉は開かれるであろうと予想していた。

果たして。

やはり彼女は起きていて、「おや、あんたも眠れなかったのかい」と、
同じ悩みを分かつ者として、「お互い苦労するねぇ」と苦笑を交わす。

「さぁ、とりあえず暖かいものでも用意するから中にお入り。 
未来の親戚を邪険にしたと知られたら息子に何と言われる事か」
おお怖、と肩をすくめつつ近くの椅子を勧めてくれた。

そう、今夜の口論の原因は我が娘とこちらの息子の結婚話についての事で。

それも、本来男親であればこれほどうれしい事はないだろうと、100人に聞けば
100人が「おう」と答えるだろう事柄で揉めていたのだった。



「やはり、あの子らはわしらの為にもこの村で暮らすと言い張りおる」

「そう。 私もさっき息子にそう言われたわ。『母さんを一人になんてできないよ』だとさ。
いったいあの子達はいつまで親離れしないつもりなんだか」
ああ、まったく情けないねぇ、と零しながらもその表情は幸せそうに見える。

そう、我々も本気であの子達が親離れできていないなどと思ってはいない。

立派な、私たちには過ぎた子供たちだと胸を張れる程には信用も信頼もしている。

だが、この村には主だった産業もなく、若者が好き好んで村に残るような理由もない。

つまり我々の子供たちはただただ、『親の為』に、この先の人生を棒に振ろうとしているのだ。

「私たちには、あの子らの幸せが一番大切なんだけどねぇ」
ブランデーの入った小ぶりのちょこをグッとあおりロクサーヌが溜息を一つ。

「ああ、わしらはわしらで残りの人生を謳歌するから心配いらんと言ってるんだがねぇ」
私もやや大きめのジョッキに注がれたホットワインを一口飲み込んだ。

「ちょうどねぇ、今2階にいるお客さん。 旅の魔道士と傭兵らしいんだけど、
どうにもうちの子達とダブって見えるのさ。 
ただ、その人たちは旅から旅の暮らしだそうだけど、とても楽しそうにしていてねぇ。
ああいう生活も若いうちは良いもんだねぇ、って思ったよ」

「ほう、この時期に泊まり客が来るとはまた、珍しい事があったもんだ」

「まぁ、この季節に旅人が来るってだけでも充分珍しいことだけどねぇ。
連れのお嬢さんがこの寒波で風邪引いちまってふもとの町までたどり着けそうになかったそうだよ。 
熱出したその娘を抱きかかえて「薬あるか!?」って血相かえて男が飛び込んできた時にゃあ、
もうひっくり返りそうなほど驚いたさ」

「風邪か。 マレリーンも小さい頃にはよく引いたもんだが」

「そうそう、うちのジョエルもねぇ。ほら、あんたんちに見舞いに行った後で
風邪引いたもんだから「あんたのせいでうちの子が病気になった!」って
旦那と怒鳴り込んだりもしたねぇ」

「ああ・・・そんな事もあったなぁ」

遠い日の、セピア色がかった思い出を記憶の中から引っ張り出す。

さほど苦労せずに思い出す事ができるほどに、この村にはこの数十年、何の変化も訪れなかった。

「うちの子達も、あの人たちみたいにもっと色んな世界を見て欲しいと思うんだけどねぇ。
この村で暮らすかどうかは、その後で決めればいいと思うんだよ」

カゴの鳥、井の中の蛙、そんな人生を歩ませたいと願う親がどこにいるってんだい。
可愛い子には旅をさせろって言うじゃないか、ねぇ・・・。
ブツブツと呟き続けてはブランデーを煽り、いつしかロクサーヌはテーブルに突っ伏して寝てしまった。

「可愛い子には旅を・・・か」それもいいかもしれない。

何も2階にいる旅人のように、あてどない旅をしろってんじゃなくて。

せめて、一時この村から、親元から離れて新たな世界を見て欲しいと思った。

「・・・この時間じゃあ、もう寝ているかな」

ボソッと口にして、私は足を階段へと向けた。

この時、私は旅の暮らしをしているという彼らに興味を持ってしまった。

彼らの話を子供たちに聞かせてやれば少しは気が変わるかもしれない、
などと勝手な期待をして。






ゆっくりと足を進めると、木製の階段は微かにキィときしみを立て。






なぜか私は足音を殺しつつ、客室の方へと向かった。

この宿には客室は5部屋しかなく、うち一つにしか暖炉はない。

したがって、ロクサーヌが病人がいるという客を案内する部屋は簡単予想がついた。

なにより、扉の隙間からチラチラと赤い光が零れているのは奥のその部屋だけなのだから。

病人は寝ているのだろうか・・・。

そんな事を考えながら、そっとノックしようとした私の手は、扉にぶつかる直前で止まった。

中から聞こえてきた声に、驚いたからだ。

「リナ・・・だから盗賊いぢめは止めとけって言っただろ? 
こんなに熱が出てちゃ辛いだろ」

病人を労わる男の声。

それに重なったのは「うっさい、それよりもっとこっちに来てよ。寒いじゃない」
発熱の所為で機嫌が悪いのか、ややかすれた少女の声。

「こっち来い、って。・・・いいのか?」

途惑ったような男と「あたしがいいって言ってんの! 寂しいから早く来てってば!!」

「うわっ!!」

男の悲鳴と、一瞬遅れてドサリとベッドに重い物が落ちたような音。

「ちょっと今のあたしはおかしいのよ・・・。
薬の所為か熱の所為か知らないけど、妙に人恋しくって、さ。
だから・・・今だけいっしょにいてよ」

甘ったれて、ごめん。

少女の声はどこか力の入らない、鼻にかかったような声で連れの男を誘っていた。

「お、おいリナっ。 いいのか? お前さん一応年頃の女なんだぞ?
なのに男をベッドに引っ張り込むなんて真似して・・・」

やや焦った男の声も聞こえる。
ふたりは恋人同士じゃないのか?

「だから、今だけって言ってるでしょ。今のあたしはあたしであってあたしじゃないの。
熱にやられて脳みそ煮え煮えになってて羞恥心とか道徳よりも
自分の欲望にすこぶる素直になっちゃってるのよ」

「欲に素直なのはいつもの事じゃ・・・ おい、本気で大丈夫か?」

おいおい。

この時点でどうにも中が気になってしまった私はつい、ドアの隙間から
こっそり室内を覗いてしまった。

中には赤々と燃える暖炉と、窓の側には水差しとタオルがかけられたタライが見え、
壁に寄せられてダブルサイズになったベッドの上には、小柄な娘に押さえ込まれた
大柄な・・・いや、背が高いのか。とにかくかなり体格に差のある男が寝転がっていた。

「だからぁ、言ってるでしょうが。あたしは熱が出てるわ、どうも薬が効きすぎてるのか
ふあふあしてて頭ん中煮え煮えでぇ、どうにもこうにも他人の温もりって奴が
欲しくて欲しくてしょうがないの! だから、大人しくあたしのになっちゃってってば」

熱の為かグラグラと身体を揺らしながらも言い切って、
娘はそのままずるりと男の胸に力なく倒れこみ。

「わ〜っ! リナしっかりしろ〜っ!!」男は脱力して倒れこんで来た
娘を抱き止めて、そのままの体勢で途方にくれた。

「・・・別に今あんたを取って食おうって訳じゃないのよ。
お願いだから、傍にいてって言ってるの。
あんたがあたしの傍にいるって実感させてよぉ・・・」

彼女は男の胸に縋るようにして顔を埋めつつ、ギュッと服を握る手に力を込め。

男はしばらくの間緊張していたようだったが、結局「しょうがないな」と呟いて
脇にずれた毛布を手繰り寄せ、娘の上からしっかりと布団も着せ掛ける。

まるで、ぐずる赤ん坊を抱いたまま眠るように。

そのままの体勢でトン、トンとあやすように背中を軽く叩きながら
「お前さんは普段溜め込みすぎなんだよ。 頼むからこんな風に
ヘロヘロに弱る前に甘えに来てくれよ」と優しい声で囁いている。

「ガウリイは、ずっとずっとあたしのだかんね〜」

眠ったかに見えた娘がずいっと伸び上がって男の首にしがみつき「はむ」と
シャツから見えていた肩に噛み付いた。

「ん〜っ。 ほら、これがあたしのってマーキング〜。
んじゃ、そういう事でおやすみなさ〜い」

言うだけ言ってしまうと、全身を脱力させて眠ってしまったようだ。

さて、それでは私も下に・・・と扉から離れようとした時だった。

「おい、そこの人。 今ここで見た事は他言無用だからな?
悪さをしにきたわけじゃなさそうだし、リナを起こしたくないから
今回だけは見逃してやるが。 ・・・2度はないぞ?」

扉越しにかけられた声は、のんびりした口調の筈なのに、私の胆を
冷やすには充分な威力を持っており。

「は・・・はい、判りました・・・」

何とか返事をして、ギクシャクとしか動かない身体を叱咤しつつ
私は階下へと下りていった。






翌朝一番に、私は娘を使いにやって将来の娘婿を呼び出した。

「お父さんったら、いったいなんなの?」
「トーマスさん、何かあったんですか?」

何故こんな時間に呼ばれたのかと首を捻る2人にヘソクリをつめた皮袋を手渡し
そのまま知り合いの馬車に押し込んで、村から離れさせる事にした。
万が一彼の気が変わったりして、2人に危害が及んだら・・・と思うと
いても経ってもいられなかったのだ。

「いいか! 最低一ヶ月は帰って来るんじゃないぞ!!」

その当時は恐怖ばかりが先に立っていたのだが、
今にして思えば結果オーライという奴だったのかもしれない。

旅先で2人はやりたい仕事を見つけたらしく、当分の間は
沿岸諸国連合のある都市に生活の拠点を構えるそうだ。

そして私はというと。

あの日から、真夜中にだけは決して外出しなくなった。

あの時間に外に出ると、当時聞いた「2度はないぞ?」と言う声が
頭の中で再生されるからだ。

その後さらに時間が経って、あの2人が伝説の魔道士と傭兵である事を
知った私は、あの日の記憶をこの日記に封印する事にした。

何にも記録を残さない事もできたが、そうするには世間一般の評判とかけ離れた
あの日の2人の記憶を消し去ってしまうのは、あまりにももったいなく思われ。

ここに、ささやかな秘密として記するものだ。