幼児化





「ほら、ガウリイ。温まるから飲みなさい」

手渡されたコップからは、ほんわりと柑橘系の香りが漂ってきた。

「ばーちゃん、こ、れ……」

ごほっ!! 

口を開いた途端に、咳が勢い良く飛び出して。

「よしよし、大丈夫かい?」

ゆっくりと背中を撫でてくれる温かい手。

「のどが痛む時はこれが良く効くんだよ。 ほら、ゆっくりお飲み……」






・・・薄暗い部屋に一筋、差し込んでいるのは廊下の明かりか。

「……ったく、どうしてあいつは……」

「お前の監督不行き届きだ! 日頃から……と」

「……な、大声を……」

「……から、さっさと……」

少し開いた扉の向こうから、大人達の声が漏れ聞こえてくる。

怒っているのは父さんで、呆れてるのは兄さん。

怒られてるのは母さんなのか、ばあちゃんなのかはわからないけど……
こうなってるのはたぶん、いや、オレの所為なんだろう。

「普段無駄に体力が有り余ってるのに。
なんで肝心な時に風邪ひくかなぁ、あいつは」

「……もういい。 お前だけでも支度をしなさい」

大きな足音が並んで二つ去った後、
聞こえたのは啜り泣き混じりの母さんの声。

「あれほどガウリイを甘やかせないで下さいってお願いしたじゃありませんか!!
あの子にはもっと頑張ってもらわないと!
勉強がダメならせめて、ガブリエフ家の男として恥ずかしくないように……」






それ以上聞きたくなくて、ぎゅっと両手で耳を塞いで布団の中に潜り込んだ。

オレの所為で、ばあちゃんが怒られてる。

オレの所為で、母さんが泣いてる。

どうしてうちはこうなんだろう。

どうして友達が言ってたみたいにならないんだろう。






「病気になった時ってさ、妙に親が優しくなるんだよな。
普段食わせてもらえない桃の缶詰とか出てくるし」

「そうそう、いつもは『お兄ちゃんなんだから一人で寝なさい』って言うのに、
病気の時は一緒に寝てくれるんだ」

こないだ聞いた友達の話に憧れて。

ぶっ倒れるまで走りまくって川で身体を冷やして、やっとの思いで風邪をひいたのに。

もらえたのは桃缶とか親の愛情なんかじゃなくて、両親の叱責と兄貴の呆れ顔、
そしてばあちゃんの悲しげな顔。

もちろん、ばあちゃんはちゃんとオレを心配してくれたけど。

代わりにオレは、ばあちゃんにたくさん迷惑をかけてしまった。

一瞬でも『親から優しくしてもらえるんじゃないか』って、期待したのが馬鹿だったんだ。








酷く喉が腫れているのか、唾を飲み込むたびに痛みが走る。

息苦しさに身を捩るうちだんだんと目が覚めて、あの光景は夢だと知った。

あれは遥か昔の事。
子供の頃の、忘れていたかった記憶の欠片。

今はもう、誰も生きちゃいないのに。

故郷には何年も足を向けていないのに。




ふっと、額に冷たい何かが乗せられた。

『誰だ?』と言うつもりが、喉から飛び出したのは声にもならない呻きだけ。

苦労して重い目蓋を持ち上げると、心配そうにリナがこっちを見ていた。

どうしてここにリナがいて、どうしてオレはこうしているのか?

ぼんやりと記憶を辿っても、昼間街道を歩いてた所までしか思い出せない。

「まったく、頑丈がとりえのあんたが……」

言葉とは裏腹な優しい囁きと共に、ひんやり柔らかな手が頬にあてがわれた。

心地良い感触に、心に沁みるリナの優しさを感じて胸の内が熱くなる。

「リ……ァ……」

無性に、彼女の名前を呼びたかった。

なのに、飛び出したのはヨレヨレの情けない声で。

リナに辛いのなら喋るなと気遣われて、勧められるままに水を含んだ。

ゆっくりと流し込まれ、熱く腫れた喉を通り抜ける水の冷たさ。

それは、今までのどの記憶よりも甘くて幸せなものに思えた。

きっとリナにはとっては、こんな幸せも当たり前だったんだろう。

熱を出せば家族に心配してもらえて、甲斐甲斐しく世話を焼かれていたんだろう。

「……ありがと、な」

急に、胸が詰まった。

こんなにリナに心配をかけているのに、幸福な子供時代を過ごしたのだろうと羨むなんて。

なんでオレは馬鹿なんだよ。

「もっと飲まなきゃ、治るもんも治らないわよ。 熱が……」

まるで、ばあちゃんのように優しく諭すリナの声が、だるい身体にジワリと染み渡り。

なんとも表現しがたい感情が、じわじわと湧き上がってくる。

もっとそれに浸っていたかった。

なのにリナは出て行こうと腰を上げてしまう。

『いやだ』

とっさにリナの服を握っていた。

「なに? やっぱり飲むの?」

怪訝そうな表情のリナ。
なのにやっぱり彼女から感じるのは慈愛とかそういう温かい感情だけで。

どんな薬よりも食べ物よりも、オレはずっと、それが喉から手が出るほど欲しかったんだ。

「ここにいてくれ」って、言わずにはいられなかった。
迷惑をかけるって判ってたのに。

「あのね、あんたの看病する為にいろいろとやらなきゃいけない事があるの。
用が済んだらすぐ帰ってくるから、ちょっと席を外す位我慢しなさいって、ね?」

困り顔を浮かべたりナは、駄々っ子をあやす様にオレの髪をかき混ぜると、
再び出て行こうとオレに背を向け……

「……いやだ。 ここに、傍にいてくれよ」

発熱から来るだるさに辟易しながら、根性で身体を起こしリナを追おうとして。

「ちょっと! 寝てなきゃダメじゃない!!」

・・・怒られてしまった。

肩を押さえられ倒れこんだ拍子に飛び出した咳は、中々治まってくれず。
ゲホゴホと盛大に咽ながら、見苦しく身体を丸めひたすら耐えるしか術はなく。

慌てたリナにもう一度水を飲ませてもらって、ようやく苦しみから解放される始末。

ゴシゴシと背中を擦る優しい手の感触が気持ちよかった。

リナが隣にいてくれれば、あんな苦しさなんて感じなくて済むんだ、きっと。

「・・・リナが、いてくれりゃすぐ治る」

だから、どこにも行かないで欲しいんだ。

「あたしがいたって、何にもしてあげられないわよ?
リカバリィは風邪の菌まで活性化させちゃうから使えないし。
ゆっくり寝るのにもあたしが傍にいたら邪魔でしょ?」

邪魔だなんて誰が思うかよ。

いてくれよ、ここに。

傍にいてほしいって、どうすりゃリナは解ってくれるんだ?

『邪魔じゃ、ない』

言葉にならない分、視線でリナに訴えた。

『頼む、傍に居てくれ』と。

隣に居てくれるだけでいい。
心配してくれるだけで、それだけでいいから。

オレを邪魔だと、足手纏いだと思わないでくれるだけで。

役立たずだと見捨てないでくれ、リナ。



必死の願いが伝わったのか。

聖母のような笑みを浮かべて、何度も何度も優しく頭を撫でては
「なんだか今日のガウリイは、すっごく甘ったれに見える」と
囁くリナの言の葉はとても優しく、それがかえって不安を煽った。

一気に、恐怖が押し寄せてくる。

『男の癖に何を』と、呆れられてはいないだろうか?

『こんな頼りない奴だったなんて』と思われないか?

役に立たない奴はいらないと見捨てられはしないか?

「こんな・・・オレは・・・いや、か?」

聞かずにはいられなかった。

リナはそんな奴じゃないって知っている癖に、自分自身を信じられずに。

否定の言葉が欲しくて、彼女を疑うような言葉を吐いてしまった。

そしてオレの願い通りに、リナは呆れも怒りもせず
「ずっと横にいるから、安心して寝なさい」と。

ただ、真っ直ぐに笑ってくれたんだ。

リナが、思い出の中のばあちゃんと重なった。

二人の姿は全然似てなんかいないのに、真っ直ぐ向けられる優しさはまるっきり同じ。

同じ位温かくて、優しくて。

こんなのは、なんて言うんだろうな、ぁ……

いつしかオレは、子供のように泣いてしまっていたらしい。

「ガウリイっ!?」

泣き顔を思いっきり見られちまった。

「……すまん。熱の所為で勝手になってる、だけだ」

慌てて両腕で顔を隠してみたものの、後の祭り。






気恥ずかしさも手伝って、そのまま眠りの波に逃げ込もうとした時だった。

「……さっきのは見なかった事にしてあげる。
……だから、早く治しなさいよね」

意識を手放す間際に聞こえた、穏やかなリナの囁きが。

ずっと囚われ続けていた寂しさから、オレを解放してくれたんだ。