「ご主人様」

一人でいる時、ふと口をついて出る単語がこんなにもあたしの心をざわめかせる。

世界でたった一人、この言葉を適用できる人物は今、隣室で眠っている筈だ。

彼にはそんな自覚はないだろう。あたしが勝手にそう認識しているだけで、
彼としてはあたしの主人などではなく相棒だと思っているに違いない。

たとえ、過去に彼自らあたしの『飼い主』だとまで口走っていたとしても。



ご主人様のことを考えるだけで、胸が高鳴り鼓動が早まる。

ご主人様に触れられるだけで、勝手に頬が火照ってしまう。

ご主人様に微笑みかけられると、幸せで頭がどうにかなってしまう。

あたしの、あたしだけのご主人様。

ああ、本当にそうなればどんなにいいか!!

冷たいベッドに横たわり、あたしは一人夢想する。
ご主人様に手綱を取られる未来。
それは永遠に叶う事のない、胸に秘めた儚い夢。






おはよう。

そんなたわいもない言葉からあたし達の一日は始まる。

大抵ご主人様とは隣り合わせで部屋を取るから、聞こえる物音や気配で隣室の様子は
なんとなく分かるもんで起床後はタイミングを合わせて階下の食堂に下りるのが恒例だ。

たわいもない会話を交わしながら食事を済ませ、仕事の依頼がないときはそのまま旅の予定を相談する。

まぁ、相談といっても行き先を決めるのはほぼあたしで、彼は何を提案しても「応」の一言。

多少の我侭を言ってみたところで変わりなどない。よっぽど受け入れがたい時だけは
軽い口調で窘められるか、実力行使で止められるけど、大抵の我がままは彼が折れる事で通ってしまう。

もっと早い段階で強引に制止して欲しいな、とか、思ったりもするけどそんな事は口が裂けてもいえない。

彼の抱くあたしのイメージとかけ離れた言動や行動は慎まなくては。
彼があたしの隣にいる理由。それを失うわけには行かないのだ。

危なっかしいから、放っておけないから。無茶ばかりする子供の抑え手が必要だから。

そんな理由がなければ、彼が人並みはずれたお人よしでなければ、
とっくに彼はあたしの元からいなくなっていただろう。





ぽてぽてと街道沿いに移動しながら、はたはたと手を振り風をそよがせてみた。

初夏を思わせる陽気はうっすらと汗を滲ませ、日光に晒された肌が火照っている。

太陽はちょうど天頂付近にあり、頭頂部を炙られる感覚が酷く不快だった。

「なぁ、ちょっと休まないか?」
そんな風に提案されては、のるしかない。

彼は気温の高さも日差しの強さにもまったく影響を受けていないだろうに、
あたしの事を気遣ってそう言ってくれているのだ。

彼は本当に優しい。優しくて、強くて寛大で。

過保護なほどあたしの事を気にかけてくれる理由は偏に心配だから、これに尽きる。

要するに、特にあたしじゃなくてもいいのだろう。
彼の目に留まり、彼の保護欲を掻き立てるような存在であったなら。




この、熱病にも似た想いを自覚してから、どの位の時が過ぎただろう。

彼に支配されたい、総てを委ねてしまいたい。

そんな想いに囚われているうちに、あたしはどんどんおかしくなってしまっていた。

今やどういう振る舞いがあたしらしいのかも判らなくなって、
惑い続ける胸の奥に沈殿していくのは「なにもかも彼に支配されたい」という願望。





ある日、意を決して、あたしは目の前の彼に小さな鍵を握らせた。

受け取った方は『これなんだ?』と首を傾げている。

「それ、持っていてくれる?」と聞いてみたかったが、
そういう言い方をすれば「どうしてだ」と問い返されるに決まっている。
だからあたしはあっさり聞こえるように努めながら「失くさないでね」とだけ言った。

お守りだとか何とか、当たり障りのない理由をつけることも出来たけれど、あえて何の説明もつけなかった。
理由がなくても彼がこの鍵を持っていてくれることが重要だから。

ああ、と、特に疑問にも思わなかったのだろう。
彼は鍵を受け取ると、さっそく自分の荷物袋の中に放り込もうとする。

「それじゃあダメよ、失くしちゃうわ。…そうね、ちょっと貸して」

実はこれもあらかじめ用意しておいた細い黒皮紐に鍵を通して、
彼の首にかけた。これできっと失くしたりしない。

―――あたしを所有する証の、鍵を。

たとえそういうものだとガウリイ自身が知らなくてもいい、あたしだけが知っていれば。

「……もらっちまっていいんだな」
紐を手に、まじまじと鍵を見つめるご主人様。

その視線がこちらに向かないうちに部屋を出なくては。
喜びに綻ぶ口元や、赤らんでいく頬を見られでもしたら、幾らなんでも怪しまれてしまう。

「じゃ、おやすみなさい」

用は済んだと態度で示して、平常通りを装い部屋の扉に手をかけた。
心臓は今までになく早く脈打ち、口の中はすっかりカラカラに干上がっている。

だまし討ちのようにしてガウリイにあたしを所有させた。
そんな事実を彼には知られたくなかったし、知られたとしてもちょっと惨め過ぎるではないか。
ずっと言えずにいた願いを一人勝手に成就させた気になって、一人勝手に満足してるなんて。

ガウリイにしてみればあれは用途の分からないただの鍵、
持っていたところで荷物が一つ増えただけで何の重みも意味もありはしないのだ。

このまま部屋を出て、自室に戻ろう。

彼が寝静まってから、毛布をかぶって声を殺して思う存分張り裂けそうな気持ちを吐き出せばいい。
ご主人様、ご主人様。
早くあたしにご命令を。あたしは、あなたに身も心も支配されたいのです。



「じゃあ」

また明日。と続ける筈だったあたしの口は、最後まで言い切ることが出来ないまま止められた。
無言で近づいてきていたガウリイの手が、大きな手が、あたしの口を塞いだからだ。

「リナ」

硬い声があたしを呼んだ。

いつもの優しい物言いではない。ぴしりと鞭がしなるような、一切の拒絶を認めない。
そんな声であたしの足を縫いとめ、弾かれたように硬直した身体は、彼の手で簡単に向きを変えさせられた。

再び彼と向かい合う形になったあたしは、ノブからはずした両手を
心臓を守るように胸の前で交差させて、必死で足下だけを見た。

とてもじゃないが、今の状態でまともにガウリイの顔を見られない。

見られたら心の内に隠した筈の欲望を知られてしまう。
そうなったらなにもかも、そう、ぜんぶ終わりだもの。



すっ、と伸びてきた手が、あたしの喉元にかかった。
そのまま太い指が襟元に潜り込み、力強く合わせを引っ張り割り開く。

「…あっ!?」

簡単に肌蹴た服の下に隠していたものが彼の眼前に晒された。
慌ててそれを隠そうとしても、あっけなく身体で押さえ込まれてしまう。

黙ったまま両手首を片手で捉えて拘束すると、ガウリイは真顔のままあたしの胸元を覗き込んだ。

怖いのに、逃げ出したいのに動けない。

見られているのが怖いのに、目を閉じる事も顔をそらすこともできやしない。

きっと今、この瞬間。
あたしはどうしようもなく幸福に満ち溢れた表情で微笑っているに違いない。

今、あたしは彼に総てを握られている。

自由を奪われ彼の支配下に置かれる喜びと、真意を知られて軽蔑されるかもしれないという恐怖。

相反する二つの思いに、今にも胸が張り裂けそうだ。






「さっきの鍵は、こいつの、か?」

空いていた手が捕まえたのは、あたしが首から提げていたアクセサリー。
ガウリイに渡したものとお揃いの皮紐の先端につけた、金属製の錠前。

問われた瞬間、身体が硬直してしまったのを彼は見逃さなかった。

「…そっか」

望んで、望んで、望み続けていたものが手に入ったと錯覚してしまいそうになるような、
抗いがたい響きを含んだ彼の声音が、身体の隅々まで染み渡っている。

思いがけない事態に動けずにいるあたしの肩に彼の両手が掛けられて、
強い力で逞しい胸に引き込まれた。

「っ、ひうっ」

頬にぶつかる熱くて硬い感触は、鍛え上げられたガウリイの体躯。
服越しにでもはっきりと分かる彼の感触に、どきどきと心臓が壊れそうなほど脈打って。
果てがないほど一気に高揚していく心。

真っ赤に染まっているに違いない顔も、首筋も。
ううん、全身が燃えるように熱くて、今にも胸が張り裂けそうだ。

「この鍵を。オレが持っていて、いいんだな?」

ゆっくりと、確かめるような口調でご主人様に問われて、
あたしはすっかり観念して、小さな声で「はい」と答えた。

すると、錠を弄んでいた手が顎に掛けられて、そのまま顔を上げさせられる。

まともにガウリイの顔を見られなくて目を細めたあたしの前髪を掻き揚げて、
そのまま額からバンダナも取りあげられて。

肌の上を滑るガウリイの指の感触に、くすぐったさと同時に感じたのは紛れもない快感だった。

「…ならば言え。お前は、オレの?」

そこで言葉を切ると、ご主人様はあたしの顎に掛けていた手を再び口に押し当てて、
二本の太い指であたしの唇を割り、口を開けさせると
突然の行為に驚き縮こまった舌を挟んで、外へと引っ張り出してしまいました。

「誤魔化しの言葉などいらん。ありのままの、リナが隠してきた本心をオレに全部曝け出せ」

キリ、と、舌に爪を立てられて走った痛みに、勝手に涙が滲んでくるけれど、
だけど、あたしは答えなきゃいけない。ご主人様がそれを望んでいらっしゃるのだから。

ごくりと喉を鳴らしたのを見てか、ガウリイはあたしの舌を自由にしてくれました。

ああ、やっと観念する時がきたんだわ。

「あたし。あたしは。身も心も全部、ガウリイ様の……ご主人様のものに、なりたいの、です」

最後まで言い終えた瞬間、稲妻のように全身を駆け巡ったのは、たとえようもない幸福感と、恍惚。

真剣な顔であたしの返答を受けると、ご主人様はことさらゆっくりと言いました。

「……いい娘だ。だが、オレを呼ぶ時は今まで通りガウリイでいい。他の呼び方は認めない」
静かな声音の命令に、あたしは陶然としたまま「はい」と答えたのだけど。

それはご主人様のお気に召さなかったらしく、パシ、と、鋭く軽い音が頬の上で鳴りました。

「いいか、言葉遣いも呼び方も今まで通りでいい。オレはそんな上っ面が欲しいんじゃないからな。
賢いお前さんなら、オレが何を欲しているか、言わなくても分かる筈だろ?」
頬を打った手がもう一度ジンジン痛む同じ箇所に。
しかし今度は優しく沿うように宛がわれました。

あたしはおずおずと、ガウリイの手に自分の手を添えて
「ガウリイの…欲しいもの?」
そっと確かめるように呟いて、ガウリイの欲しがるものなら何でも差し出そうと誓いました。

勇気を出さなきゃ、ご主人様は手に入らない。
そんなことはこの関係を自ら望んだ瞬間から覚悟していたはずでしょ。






しっかりと視線を合わせ、彼の望みを探る為に全神経を集中させようと彼を見つめ。
「……ガウリイ」
綺麗な青い瞳がまっすぐあたしを映すことがたとえようもなく幸福で、知らず吐息を洩らしていたようだ。

「リナ、お前がオレのモノになるというなら。
今ここで、その証を立ててもらおうか」

ガウリイは口元に男臭い笑みを浮かべると、床に落ちたバンダナを拾い上げた。

「手をこっちに」

簡潔な指示を貰って、あたしは躊躇うことなく彼の眼前に両腕を差し出した。
縛めやすいように手首を揃えて。

無言であたしの手首を封じていくガウリイの瞳には、今まで感じた事のない影と熱っぽさがあった。



本当に、これから全部暴かれてしまうんだ。

唐突にそう思った。



しっかりとバンダナで結わえた手首を捉えられてガウリイに導かれた先には、
さっきまで彼が寝ていたはずのベッド。

座るようにと肩を押さえられて腰を下ろすと、すぐ隣にガウリイも座って、力強くあたしの身体を抱き寄せた。

「このままオレが何をしても。
リナは、抵抗しないんだな」

両腕であたしの頭を抱え込むようにしながらの、ゆったりとした口調の命令に、
あたしは「はい」と答えそうになって、慌てて「うん」と言いなおした。

あたしの総てはガウリイの望みのままに。
彼がそうしろというなら意に沿うよう応えなくては。

するりと服のあわせを割る指の感触に期待と怯えを感じながら、あたしはコクコクと頷いた。
恥ずかしいのは恥ずかしいけれど、それ以上に心を満たすのは彼に求められているという喜び。

正直どこまでされてしまうのかという不安はある。
けれど、ここでガウリイの命令を受け入れなければさっきの誓いを破る事になる。

あたしを支配する、所有できる唯一の人と定めたから。
総てはガウリイの意のままに。

焦がれに焦がれていた手で露にされていく素肌は羞恥と興奮に昂ぶっていく。

ガウリイの視線が眩しすぎて、そっと目を閉じた。

荒くなっていく呼吸が恥ずかしくて唇を噛む。

震えそうになる身体を抑えようとしても、全然言う事を聞いてくれやしなくて。






「……やめた」

唐突に、ガウリイの手が離れた。

「え?」

目を開けると、立ち上がったガウリイが剣を手にとって外出の仕度を始めているところだった。

「オレは抱き人形が欲しいんじゃないんでな。そのまま一人で留守番してろ」
冷たく言い放つと、興味が失せたとばかりに向こうを向いて出て行こうとする。

「ぃ、いやっ! お願い、待って!!」

心細さと見捨てられる恐怖に、涙が溢れだした。

「ちゃんとするから! 頑張るから!!
ね、お願いだからあたしを置いて行かないで!!」

縛められたままの手でガウリイの服を掴み必死で縋りついても、
彼は冷たくあたしを見下ろしただけ。
それどころか「所有物が持ち主の行動を束縛するつもりか?」と。

突き放すような指摘を受けて、あたしはなけなしの理性を総動員して掴んた服から手を放した。
自分本位の情けなさすぎる行動に恥じ入ることしかできないで、
「……ごめ……ん。 いって、らっしゃい」
それだけを言うのが精一杯だった。

やっぱり、こんなあたしじゃ、だめ、なんだ。

床に落ちる涙の染みを見つめながら立ち尽くしていると、溜息と共に大きな手が顎にかかった。

「オレの顔を見て言えよ」

みっともない顔を見られてもいい、これ以上背いて嫌われるよりはと、急いで顔をあげると
困ったような、嬉しそうな顔があたしを見つめてくれていた。

「ガウ、リ…イ?」

呆然としているあたしの頭をいつものようにぽふっと撫でて、苛めて悪かったと謝られて。

そのままギュッと抱きしめられた。

「……え?」

許されたの、かな。

不安な気持ちを抱えたまま、おずおずとガウリイの身体に身をすり寄せる。
嫌われる位なら、このまま時間が止まってしまえばいいのに。





あの、な。
たぶん、お前さんは迷っちまっただけなんだ。

あたしを抱いたまま、ぽつりぽつりと言葉を選ながらガウリイは話し始めた。
あたしがなぜこんな関係を望むようになったかを。
どうして彼がこんな意地悪をしたのかを。

「お前さんは不安に囚われすぎてただけなんだ。
今まではっきり言わなかったオレも悪いし、ずっと本音を隠してたリナも悪い。
二人揃って最後のラインを割るのを恐がってたせいで、きっとこんなことになっちまったんだ。
お前は女で、オレは男で。
オレはリナを組み敷いて自分のものにしまいたいし、リナはオレにそうされたいと思ってくれたんだろ?
それを認められないで複雑に考えちまったんだろうなってのは、
リナを見ていて判ってたんだ。
こう、オレを見る瞳の色がどんどん変わっていったから」

これからはもっと素直になろうな。
オレはもう、リナが一人で悩んで壊れていくところなんか見たくないんだ。

雄臭さを隠しもせずに、荒々しく唇を奪った愛しい男。
あたしはその胸に縋って、もっとしてと哀願していた。





「リナはさ、以外とこういうのが好きなんだな」」

嬉しげに、楽しげに。
柔らかな褥の上で絡まりあって睦みあう。

ガウリイがあたしのお尻に爪を立てると、ゆっくりとひっかくように動かして笑っている。

「ふわっ!……ん、うん、きもち、いい」

手ずから齎される僅かな痛みとそこから広がる痺れるような快感に、
あたしはガウリイが齎す快感と興奮に酔いしれて、ふるりと全身を震わせた。