雨交じりの雪が降る冬の終わり。
たわいもない諍いが元となり、あっけなく二人旅は終わった。
彼がどこに行ったのか、あたしは知らない。
彼もまた、あたしがどこに向かおうとしているのか知るはずもない。




ぬかるんだ山道をゆっくりと登り、たどり着いたのは小さな祠。
背の低いあたしでも身をかがめなくてはならないほどにその入り口は狭いが、
一度中に入りさえすれば広大な空間が広がっていると聞いている。

誰にここの場所を教わったのか、ずっと忘れていたのだけど。
『今のあたしにはうってつけの場所だわ』
胸の中でごちて、荷物袋の中を漁った。

鍵はもう手に入れてある。
真っ白なリボンを通された掌サイズの平べったい純銀製のペンダント。
それを入り口のくぼみに押し付ければ、石造りの扉が重々しく開いていく。



……彼といる間、ずっと秘密にしていたことがある。



祠の入り口は開ききり、あたしがくぐるのを今か今かと待っている。



あたしは、普通の人間じゃない。



中は薄暗く、凝った闇がおいでおいでと手招きしているようだ。

額のバンダナに手をかけてさらりとほどけたその下には、
真珠色をした一対の短い角が生えている。



福は内、鬼は外。



だからあたしは、故郷から外の世界へと追いやられた。



福は人外のもの。
稀なる力をもたらすもの。

鬼は人外のもの。
稀なる力を振るうもの。




人と異なる存在として生を受けたあたしたち姉妹は、故郷において
不当に扱われたことなんか一度もなかったけど。
それでも幼い頃から誰に言われるでもなく、周囲との違和感を感じていた。

姉は早くからあちらこちらへ招かれて不在が多く、
あたしはどこにも行けずに力の揮い方を学ぶ日々。
両親は普通の人間のはずなのにどうしてあたし達のようなものが生まれたのか。
全てをそのまま受け入れてあたし達を慈しみ育ててくれた両親。
彼らの胸中を思うとこの道を選ぶ事を申し訳なく思うけど、
それでもあたしは、こうするしかなくて。

「追いやるのではなく、背中を押して送り出すのよ」と、姉は言った。

ここでないどこかならば、違う生き方を見つけられるかもしれないでしょ。
厳しくも優しい姉の手向けの言葉を思い出して、苦笑いが込み上げてくる。



「あーあ、まさかこんなに早くここに納まることになるなんて」
一歩を踏み出して呟いてみた。
愚痴くらいこぼしたっていいじゃないか、誰が聞いているでもなし。

闇が指先に触れた瞬間、内なる力が膨れ上がるのがわかった。
ここにこの身を投じても、退屈なんてしないだろう。
この先にある、終わりのない日々が待っている。
薄紙一枚隔てたあちらの世界には、
敵対するもの達が常に満ち溢れているのだから。



鬼ゆえに一つところには留まれず、それゆえに異世界を渡る力を与えられた。
それが一方通行の力でなければもっと早く受け入れることも出来ただろうに。
一度この世界を離れれば、いろんな世界をぐるりと回って
再びこの世界に戻れるまでにどれほどの時が必要になることか。
きっと、この世界に戻ってくる頃には、あたしを知るものはいなくなってる。


幾度か魔族にならないかと勧誘されたこともあるが、
そうなる筈もないと、どうして彼らはわからないのだろう。

「あなたも、そして我々魔族も。
人間に忌み嫌われるという意味ではおなじものではありませんか」
糸目の魔は謡うように誘いにきたけど。

違う。

違うの。

あたしは、滅びたくもなければ人の嘆きや悲しみを喰らう趣味もない。
鬼と魔は似て非なる存在だわ。

「負の感情を喰らう代わりにあなたは人を喰らうでしょう? 似た様なものですよ」
ことある事に、彼の魔族の戯言を思い出してはそのつど密かに落ち込んだりもした。

鬼である以上拒絶できない、鉄錆味のあたたかな食物を食べる時。
どんなに人であろうとしてもなりきれないと突きつけられる。
鬼の本能に従って手の中の命にかぶりつく瞬間、確かにあたしは幸福だったんだから。


血に弱いかつての連れは、酔狂にもあたしの正体を知っても「そう」とだけ言った。
だけど、いつのまにかどこかに行って、それきり戻ってきやしなかった。
彼女のことだからいつかどこかで再会することもあったかもしれいけれど、
ここに篭る間、その可能性はなくなる。

いつか、もう一度会えたらお酒の一杯でも奢ってやろうかしら。
あくまで一杯だけだけど。

酒ばかり飲んでは高笑いを繰り返していた彼女は
いい加減自分の国に帰ったろうか。
かの一族の中でももっとも濃い血を宿しているだろう巫女姉妹、
初めて妹の方と顔を合わせた時には分からなかったけど、
今思えば面差しも良く似ていた。

高貴なる血の流れの中にも、一般人の血の中にもどこにでも
貴賎を問わず異端の力は密やかに、息を潜めて人間の中に宿っていて。

結局彼女達がそれを自覚しているのか、正体がなんなのかまではわからなかったけれど。
人間の理の中で暮らしていける彼女達がうらやましくも、あったっけ。
不死身に近い彼女なら、いつかあたしが戻った頃でもうっかり生きてたりしてね。



正体を隠し、あるいは自らの正体を知らず人の中に紛れて暮らす異形たち。
人から合成生物へと変じたものや、人から魔に堕ちたものもいる。

ならば、鬼から人になったってかまわないじゃないか。

そんな思いに取り付かれ始めた頃、ひょんなことからあたしは一人の人間に出会った。

おせっかいで親切な、下心のない善良な人間。
彼の押しの強さと、裏表のなさ、そこにもの珍しさも手伝って
結局あたしは押し切られるようにして、彼の同行を許した。

最初は10日だけのはずが、色々あるうちに長い時を共に過ごした。
寝食を共にし、あれこれ事件に首を突っ込むうちに、あたしの中に今までなかった感情が灯った。

好き。

それは人が持つ感情であり、生き物としての本能。

愛されたい。

番を求め子孫を残す為に必要なこと。


だけどあたしは人にはなれず鬼のままで、鬼と人は決して結ばれてはならなかった。
鬼は、愛しい人をも喰らうものだから。
彼と契りを結んだならば、あたしは彼を傷つけてしまうだろう。
その場は耐えても、いつかは彼の血肉をこの身に取り込み次代を宿す力に変えて、
新たな命を育もうとするだろう。

自分が何者なのかを知りたくて紐解いた古の書物、
そこに残されていた先々代の鬼が起こした悲劇。

そんなものをなぞりたくなんてない。






「さてと、行きますか」
手を伸ばすと、ちりりりり、と、澄んだ音が鳴った。
幾重にも手首に巻いた細い皮紐。
そこにぶら下げた小さなお守りが鳴ったのだ。

「あんたは、連れて行くわ」

そっと持ち上げて唇で触れる。
緑色の宝石護符は、彼とあたしでお揃いにあつらえたものだった。

……彼はもう、捨ててしまっただろうか。

優しい人。
その存在が愛しいと、心から思ったただ一人の人間。
かけがえのないあなたをこの手で失うくらいなら、最初から結ばれなくていい。



でも、もういちど。

もういちどだけでいいの。






「会いたいよ・・・ガウリイ」

零れ落ちた呟きは空気にとけた。

そのままあたしも消えてしまおうと、前のめりに闇の中に飛び込もうとした瞬間。

いきなり、世界が回った。





石の境界が通り過ぎ、反転する景色の先に青く澄んだ空が映り、
唖然としたまま動き続ける風景の中に、異質なものが混ざる。
それは、覆い被さるように圧し掛かってくる人影。

「何するつもりだ!」

叫びと同時に、がんっ!という強烈な衝撃と、
僅かに遅れて強烈な痛みが背中と肩を襲った。
ダメージを受けた肺から空気が押し出されて「かはっ」という音が喉から飛び出すのと、
何者かに肩をつかまれて後ろにひっくり返ったのだと理解したのは同時。

剣を、いや、素手でも。
反射的に突き出した人差し指と中指、狙うは相手の顔、眼球だ。

「あまい」

だがあたしの攻撃は軽々とかわされて、逆にそいつに腕を取られて捻り上げられた。

「いた、いたいって!」

悲鳴をあげても容赦される気配はない。
あっという間に地面に押し付けるように引き倒されて、
逃げを打つ暇すらなく腰の上に跨られた。

腕を交差するように纏められて、頭上で押さえられている。

万事休す、か。

自分を襲ったものが何者なのかとしかめていた目を開き、
相手を見上げて・・・絶句、した。

怒りに満ちた表情を隠しもせずに、あたしを見下ろしていたのは
別れた時と殆ど変わらない服装と軽装鎧を身につけた、人間の男だった。

腕一本であたしの両腕を封じるとか、知っていたけど馬鹿力にも程がある。
長い前髪が青い瞳を覆うように垂れて、もっと長いものは肩から零れて
彼の腿やあたしの上にも散ってわだかまっている。

「お前さんは、どうして、いつも」
吐き捨てるように言う彼の態度と、それ以前にどうしてここにいるのだろうかと
あたしはただ途惑うばかり。
抗うことも忘れて呆然としたままかつての連れを眺めていたら、
突然パシンと軽い衝撃がきた。

「目を離すとさっそくこれかよ」
ジンジンとした痛みを伴って、左の頬が熱くなっていく。

叩かれ、た? 

あの、ガウリイが、あたしを叩いた、の?

「あれだけ「一人で抱え込むな」って言ったろーが。
ったく、お前さんの性分とはいえ」

しかもガウリイは喧嘩別れした過去にではなく、
今のあたしに対して怒り苛立っている?

「どうしてお前さんはそうなんだ」

握られている手首が痛い。圧し掛かられてる腰も、重くて痛い。
手加減の気配がまるでない。
これは本当にあたしの知っているガウリイなのか。

「……こいつか。こんなもんにふりまわされてんじゃねーよ」

もう一度、軽い勢いで叩かれた。

その場所は、額。

そう、今までずっと隠してきた角の上。



「あ・・・あ。いやあぁあぁぁぁ!!」

あたし、バンダナをしてない! 

見られた。

知られた。

今度こそ、本当に終わりだ。



「やめ、離して!!」

無我夢中で手足をばたつかせ、身を捩ったり背を仰け反らせたりして
身体の上からガウリイを振り落とそうとした。
だけど全力のあたしの抵抗は最後まで封じられて徒労に終わった。

「・・・気が済んだか?」

詰るように吐き捨てたガウリイの視線がまっすぐあたしに突き刺さる。
手首の痛みより、身体の痛みより、彼からのまなざしが痛くて辛くて泣けてきて、
もうまともな言葉も出なくなって、うーうーと呻くことしか出来ないあたしと、
そんなあたしを冷たく見下ろすガウリイ。

しばらくそうしていて、あたしが抵抗しないと認めると
自らの懐を探って何かを取り出した。

「諦めろ、お前さんに選択権はない」
そう言って口元を緩めた彼の一見優しげな微笑みが
どうしてか、心底怖くて。

「ほら、口開けろ」

大きな手が顎にかかり、むりやり口をこじ開けられて
あまりの痛さにまた涙が溢れ出す。

けど、ガウリイはそんなのお構いなしで、取り出した何かを
自分の口に放り込むと、ゆっくりと顔を近づけてきた。

「ぅ、んっ!」

ぎゅっと目を閉じて儚い抵抗をしたあたしを笑ったのか、彼の喉が低く鳴り。
近づく熱がとうとうあたしの唇に触れた。

熱くて柔らかな感触と、カツンとぶつかる歯と歯。
その隙間をすり抜けて、舌の上に落ち着いたものがあった。

ほのかに冷たくて甘い、未知の味覚。

続けて押し込まれる熱い舌と貪るように喰らいつく唇に翻弄されるばかりで、
わけが判らないままあたしはそれを呑みこんでしまった。
ゆっくりと唇が離れていく頃には抵抗する余力どころか気力すら奪われていて
肩を抱かれて起こされて、そのまま逞しい腕の中に囲われても指一本動かせず。
もはや重いだけの身体をガウリイに預けてじっとしていた。

どうしてこうなったのかとか、あれはなんだったのかとか、
どうして彼がここにいるかとか疑問ばかりが湧いては消えて、
だけどまともな答えなど今のあたしに導き出せる筈もなく。

なんか、さっきので思考力すらも根こそぎ奪われてしまった気がする。






「リナ、気分はどうだ?」

さっきまでとは全然違う、優しい労わりの声が降ってきて。
髪越しに感じた温かな吐息と、押し付けられた唇の感触に頬が熱くなっていく。

思い返せばさっきのあれは。

「なんだ、もう一回キスして欲しいのか?」
嬉しげな空気をダダ漏れながら、さらっとガウリイが爆弾を落とし。

「ふ、ふぇっ!?」
やっぱりあれはキスだったのかと認識させられたあたしは、
いきなりすぎて対応できずにガッチガチに固まってしまった。

「リナ、ほら」
大きな手に手を取られて、導かれたのは額の上。
見られたのを認めたくなくて強張るあたしの手を強引に角に触れさせる。

やだ、そんなもの触らせないで!……って。
指先に、あの忌々しい尖りが触れない。

「・・・え?」

「大丈夫だって、ほら」

ぺちぺちと数回あたしの額に掌で触れて、綺麗に消えたとガウリイが言った。
慌てて自分でも額を触ってみたけど、本当に角が綺麗さっぱり
跡形もなく、なくなっていた。







***********







「いったい、どういう・・・」
あるはずのものがなくなる。というのは、オレの想像以上にショックが大きいらしい。
リナは大人しくオレの腕に納まったまま、自分が何をしにここにきたのかも忘れて
何度も何度も自分の額をぺたぺた触りまくっている。

「鬼の象徴たる角が消えれば、とりあえずリナは人間になるでしょう。
ただし生まれ持った魔力はそのままだから、あの子はこれからも平坦な人生を歩みはしない。
それでも。ガウリイさん、あなたはあの子を望むのですか?」

ここに来る前に言われた問いを思い出して、肯定の言葉を唇に乗せた。
リナを失わずにいられるのなら、どんな事でも受け入れてやる。

オレの答えを受け取ったのか、遠くで彼女が笑った気がした。






理由は忘れたが、何かやったか言ったかで派手にケンカをして、
売り言葉に買い言葉、勢いのままリナと袂を分かった日の夜。

自分が折れればいいと分かっていながら、
どうしてもリナのいる宿に戻る気になれずに、
野宿をしていたオレの前に現れたのは、
艶やかな黒髪を肩の辺りでざっくり切り揃えた人影。

彼女が只者じゃないことはすぐに判った。
吹きかけられる強烈な怒気は、人間というよりは竜族や魔族のものに近かったからだ。
燃え盛る炎のように感じるそれは、うっかりすると
肉眼で見えるんじゃないかというほどで、
反射的に剣を抜いたのはオレの中の生存本能のなせる業だろう。

「よくも、あの子を泣かせてくださいましたね」
開口一番、静かに恨み言を口にした女だったが、
まじまじとオレを眺めると、やがて大きな溜息をついた。
「なんだ、しっかり反省しているんじゃない」
オレの内心を見透かしたらしく、肩を竦めて「おしおきは必要ないみたいね」と笑う。

あんたが言うあの子とはリナのことかと問うたオレに、
女は肯定とも否定ともとれる微笑を浮かべたまま
「だけど、このままだとあの子も、あなたも救われないわ」と言った。

「どういうことだ」

不吉な物言いに苛立ちながら問い返したオレに、女は話を聞く気はあるかと持ちかけ、
頷いたオレに剣を収めるように促すと、衣擦れの音も立てずにその場に座った。



女に教えられたリナの秘密。
それ自体には、実を言うとあまり驚きはなかった。
どこかで聞いたような話だったからだし、それ以前にオレにとっては
リナがなんであろうと気にならなかったからだ。

リナはリナで、それ以外の何者でもない。
だから正体とかそういうのはまったく障害にならないと伝えると、
正直なんだかバカなんだかと呆れられた。

そして女は嬉しそうに一つ頷くと、「リナが欲しい?」と言った。
欲しいって、犬猫の子でもあるまいに。
「好きか、って意味で言ってるのなら、オレはリナしか考えられない。
あいつの手を取ったのも、実家に行こうって言ったのも、そのつもりだったからだ」
どうせ全部筒抜けらしいと、聞かれること全部に腹を割って答えていると
「正直な人は好きだわ。だから、これをあげる」
そういって彼女が突き出した手の中に。

一つしかないから、大事に使うようにと手渡されたのは、
艶のある親指の先ほどの茶色い塊。

「あちらに行ってしまう前に、あの子を捕まえて食べさせなさい」
早くしないと間に合わないの。
私は誰かの願いを聞くことはできても自分の願いを叶える事は出来ない。

だから、あなたの手を借りることにするわ。
・・・どうか、あの子の事をお願いします。

そうお辞儀をした女は、瞬きをする間に姿を消して。
翌朝、半信半疑で宿に戻ったオレは、どこに行くとも告げずに消えたリナを探すことになる。

手がかりは、腕につけた揃いの護符。
一つの宝石を割って作られたこいつは、分たれた片割れを呼んで
鳴くのだと聞かされていたから、道に迷うたびに耳を傾けてリナのいる方角を探った。

少しずつ大きくなるリリリリリ・・・という音に、リナに追いついていると希望が湧いた。
人の気配のない荒れ果てた山に導かれても、躊躇することはなかったけれど
ようやく探し当てたお前さんは、今にも違う世界へ飛び込もうと
身を乗り出しているところだった、ってわけだ。




「……幾らなんでもタイミングよすぎ」
野生の勘とかそーいうレベルじゃないわよと苦笑するリナに、
オレから最後の爆弾を落としてみようか。

「ずっと言いそびれてたんだが、オレ、ちびっとだけ竜族の血が混じってるらしいぞ」

「へ、ええええええっ!?」

顎が外れるんじゃないかって位に叫んだリナがかわいかったもんだから、
つい、外だというのも忘れて正直な手を伸ばしちまって。

「初めてが外、って、なしよ、なし!」

久しぶりに吹っ飛ばされたのは、まぁ、予定調和ということで許してやるけど
万が一、またこんなことを考えたなら、その時は。


オレこそが、貪欲なケダモノになっちまうんだからな。