はふっ、と、息を吐いて今夜のねぐらに潜り込むと、冷たいシーツの感触に
全身がぞくりと粟立った。

冬の夜。
それも殊更底冷えのする今日のような日は、穏やかな眠りにありつく前の
根性試しとも言える関門を潜り抜ける必要がある。

それが、これ。

追加料金を払って景気良く焚いた暖炉の炎はしかし、温かな空気を拒絶するように
重なった布団も毛布も温めてくれていない。
いっそ寝る前に赤々と燃える炎に毛布をかざしてやろうか。とも考えたが、
万が一、焦しでもしたら余計な出費が重なってしまうので断念したんだった。



氷のように冷たい寝床、そこに人はどうしていともたやすくもぐりこめるのだろうかと
いう思いは、冬の間中消えない。

幾ら寝間着を着込もうと頭の先から足先までくまなく防寒装備を整えようと、
あの、氷のように冷え切った寝具に身体を横たえる瞬間の
「ひやっ!」とする感覚だけは慣れないし耐え難いものがある。

旅をしていなければ湯たんぽなりを仕込むという手が使えるのだが、
そんなものをわざわざ持ち歩くのもどうも。

余分な荷物は増やしたくないしそれ以外の理由もあったりでまぁ、案としては却下。
実家にいた頃は世話していた犬猫を先に放り込んでおくという手もあったにはあったが、この宿には客寄せのペットもいなければそもそもそんなものがいたとしても一見客が気安く借り受けられるわけもなく。

「うううっ、この苦行を乗り越えたら!」
重ねた毛布と冷たいシーツに自分の体温が移るまでの辛抱だ。
一旦温まりさえすれば、この極寒地獄はほこほこと暖かく包んでくれる楽園へと
変わるのだから、我慢我慢。

手袋越しの手に、はふっと息を吹きかける。
ぬくみと湿気を纏った呼気が、編みこんだ毛糸を潜り抜けてかじかんだ手指に届く。

これだってやりすぎると逆効果なのだ。
数を重ねるごとに繊維に湿気がしみこんで、そいつがなけなしの体温を
奪っていってしまうから。



「う〜っ、寒い。なんでここまで冷えなきゃなんないのよ」
ぼつぼつと愚痴を吐きながら、見た目ほど温めてくれない暖炉の炎を
睨みつけたが、それで寒さが和らぐわけでもなし。

一刻も早くぬくぬくして眠りたい。

辛さをやり過ごすようにぎゅっと瞼を閉じて、リナはブルブル震えて
小さく身体を丸め込んだ。



―――だが、眠れないものは眠れない。



カタカタカタ……

外から聞こえる物音は、木枯らしが立て付けの悪い木戸を揺らす音。
時折廊下から咳き込む音が聞こえたり、酔っ払いだろうか
えらく機嫌よさそうな歌が聞こえたりもする。

うるさいと怒鳴りつけたくなったが、今更寝床から出たくもなかったので
諦めて耐えてしばし。

調子っぱずれもはなはだしい歌が遠ざかり再び静寂が室内を包む頃、
ようやく染入るようだった寒さが和らぎ始めた。



こういう時、寒さに強い奴ってのはうらやましい。
薄着でも平気だわ、身にまとう衣服が少ないので外に熱が放出されやすい。
つまり、そういう体質の人々は自らの体温を使って短時間で
布団を温める事が可能なのだ。

身近にいるあいつや、かつての旅のツレやその父親もきっとそうに違いない、
見た目だけであんなに暑苦しかったんだから。
岩肌の彼はどうだかわかんないけど、神出鬼没な方は実体がないので
元より体温なんてもの存在しないはずだ。

懐かしい顔や、そうでもない顔を思い浮かべてはクツクツと笑う。
そうだ、子供の頃に眠れないからと飛び込んだ父母のベッドの温かさは
まさに至福だった。
仲が良すぎるほど仲の良い両親ゆえに、自分のベッドに行けと追い返されることも
しばしばあったけど、優しいおやすみなさいのキスを貰うたび、
幼心は満たされたものだ。







寒い。

それにしても本気で寒い。
こんなに寒くちゃ、ちっとも眠れやしないじゃないか。

がじがじとシーツを齧るうちに、ふと、懐かしい思い出が頭の隅をよぎる。
むかーし、そう、まだ郷里を出て一人でうろうろしていた頃だ。
撒いても撒いてもどこからともなく湧いて出ては纏わり着いてくる
自称「リナ=インバースの永遠のライバル」だそうな、
白蛇のナーガと一夜を共にした事があったっけ。

一応断っておくが、変な意味ではなく。

路銀が心もとなかった時に緊急避難として一部屋に泊まって、
たまたまそこにはシングルベッドが一台しかなかったというたわいもない話である。

まぁ、本来自分ひとりで泊まる筈が必死の形相をしたナーガに縋りつくようにして
頼まれて、断りきれなかっただけだが。






「あら、リナったらお子様の癖に代謝が悪いのかしら?こんなに鍛えてあるのに
ちっとも体温が上がらないなんてヘンだわ」
狭いからとぎゅむっと抱きしめられて、脇に流された黒髪が頬をくすぐったくて。

むにゅりと押し付けられた彼女の大きすぎる胸の感触にこっそり悔しさと
羨望を抱いた事はひとまず脇に置いておく。

冷えてるんならこの際思いっきり、遠慮なくくっついていいのよ?と、殊勝にも
こちらを気遣う素振りを見せたナーガに、悪いわねと返して、
冷えに冷え切っていた掌で彼女の背中を触りまくった。

日頃の薄着(というよりは下着だ、あれば)の賜物か、
彼女もまたひたすら寒さに強かった。

あの日も薄い寝間着一枚を羽織っただけという、あたしからすれば自殺行為ともいえる装備で寝床に侍って笑ってて、一瞬、あやしいお店のサービスじゃないんだから。
とか考えた事はないしょである。

ナーガはとにかく頑丈だったし多少の寒さ暑さにも強かった。
流石に雪がちらつくほどの気温ともなればマントなんかで防寒していた気も
するけど、基本、彼女は自らのポリシーだからとあの格好を貫いていたっけ。
服のセンスはともかく、あの体質はうらやましかった。

結局二人で狭い寝床に納まったまま、冷たいだのくすぐったいだの、
触っていいって言ったのはそちらじゃないかなどとひとしきり騒ぎ立てている内に、
冷たかった布団はほこほこに温まって、うっすら汗すらでそうな具合になっていて。

「いいからとっとと寝ちゃいなさいよ、
湯たんぽ代わりの報酬は朝食おごりでいいわよ」

たまにはいい夢見なさいよね、なんて。

優しげな笑みを浮かべて髪を撫でられたっけ。

その後の事は良く覚えていないんだけど、まるで故郷のねーちゃんに
甘やかされてるような心持ちだったのは覚えている。

ま、翌朝にはいつもどおりの小競り合いをやらかして、
そういうことはそれっきりなかった。



いつの頃からか彼女はあたしの前に姿を現さなくなった。

よく腐れ縁だと笑ってたし信頼とか仲間だとか、そういうものではなかったけれど、
ある意味彼女とは気の置けない関係ではあったと思う。

顔を見なくなって久しいけれど、きっと彼女は変わらず彼女のままに違いない。

今度会うことがあったなら、そしてそれが冬だったなら。
背伸びでもして、冷たい手であったかい項の辺りを触ってやろう。






ふ、と。

ぼやけがちな目を擦る。

いつの間にかうつらうつらとしていたようだ。

目が醒めたのは、誰かの気配が近づいているから。

確証はないが、項の辺りがざわめくような感覚はないから敵ではなさそうだ。
そもそもこの街に立ち寄ったのは協会の書物庫で調べ物をするのが目的で、
仕事の依頼を請け負うつもりはなかったから、そのへんはきちんと話をつけてある。

そもそもよっぽどの理由でもない限り、このリナ=インバースを名指しするような
事件なんてなさそうな、到って平和そうなところだし。



その気配は、やはりあたしの部屋の前で足を止めた。

僅かな時間ためらいを見せた後、そいつが遠慮がちに扉を叩く頃には、そ
れが誰であるのかあたしはもう判っていた。

「リナ、ちょっといいか」
控えめな声で名前を呼ばれたあたしは、正直、寝たふりをしてやろうかとも思った。

完全に寝るつもりだったから、扉にはしっかり鍵をかけてある。
つまり彼の用件にもよるが、起きていると知られればほぼ間違いなく部屋の中に
招くことになるだろう。

それは、ようやく温まりだしたこの場所を
一旦離脱しなくてはならないという過酷な事実。

わざわざこの時間に声を掛けてきたということは何か用があるのは確実だが……

「起きてんだろ? ちょっと開けてくれないか」
こちらの葛藤も知らないで、暢気にコココンっとリズミカルに扉を叩く彼には
あたしの気持ちは一生かかっても分かるまい。

真冬にシャツ一枚で出歩ける体力バカ、ガウリイ=ガブリエフめ。

彼は鋼のように鍛え上げた肉体を持っているだけに、すこぶる代謝もいいらしくて
厳冬期には彼の周囲がわずかにあったかかったりもして、内心うらやましいと
思ったことは一度や二度ではない。

「ううっ……しつこいわね。寒いからやーよ、明日じゃだめ?」

「お、やっぱり起きてんじゃねーか。早く開けてくれよ」

追い詰めるように忙しなくコココンコンコンと扉が叩かれ、仕方ないなと項垂れて。

「そんだけうるさくされりゃあ誰だって起きるわよ」
なんの用よ、まったく。

ぼそぼそと口の中で開錠の呪文を唱えて鍵を開けると、ばたんと勢いをつけて
扉が開いてガウリイが飛び込んできた。

「リナ、……って、あれ?」

「寒い!さっさと閉めてったら!!」

入り込んできた冷気に顔を顰めて怒鳴りつければ、
ガウリイは慌てたように扉を閉めた、が。

「あれ、お前さんいつの間に」
そこに突っ立ったままぽかんとした顔であたしを見つめて、
不思議そうに小首をかしげた。

「寒いから呪文使ったのよ」
んで、何の用よこんな時間に。まあ、来たんだから座んなさいよと
暖炉脇の椅子を勧めて、あたしは被った布団ごとベッドの上に座り込んだ。

「なんか……雪だるまみたいだな」

くすくすと笑い出した失礼者に、誰が起こしたんだとムッとしたが、
悪びれない態度に結局毒気を抜かれてしまった。



「で、なによこんな時間に」
ガウリイに頼んで暖炉に薪を放り込んでもらって、ようやっと体の強張りを
緩めることが出来た。

布団に入る前に大量に組んでおいた分が半分ほど燃え尽きていれば
そりゃあ布団を被ってたって寒いわけだ。

「ん、ああ。ちょっと、な」

応じたガウリイの珍しくも歯切れの悪い態度に、今度はこちらが首を捻りたくなる。

この寒い夜に、それもとっくに草木も眠る真夜中だというのに何をしにきたのだ、
このくらげは。

「盗賊いぢめに行ってるとでも思った?」

「いや、この時期にそれはないだろ」
お前さんは寒いのが苦手だから、なんて、さらっと笑ってみせるし。



低くて柔らかな声が部屋を満たすのを、あたしはぼーっと眺めていた。

無理に話さなくても気まずくならない関係だからこそ許せる絶妙の間、
それに一人の時はあんなに寒々しかった室内が、ガウリイがいるだけで
優しい雰囲気に包まれていく。




何がツボに嵌ったのか、揃って顔を見合わせて。
それからあたし達はクスクスと笑って、笑って。

そろりとガウリイが近づいてきたのを、あたしは穏やかな心持で見つめていた。
当たり前のようにベッドに腰をかけたガウリイは大きな手をあたしの頬に宛がうと、
低い声で冷たいなと囁き、そして。

「きゃうっ!」

思い切り、布団越しに抱きしめられた。



「なにすんのよ」

「いやな、壁越しにずっとぶちぶち寒いって言ってたから」
気になっちまって、とかなんとか爽やかに言いながらもその手はちゃくちゃくと
あたしが引っかぶってた布団を剥がし、毛布を引っぺがして一気に距離を詰め、
それらの端と端を握りしめて、ぐるんと自分の身体と一緒にあたしを包み込んだ。

「ほい、ちょっと待ってな」

背中に回った腕が軽々とあたしの体重を支えて横になるよう促してきたので、
とりあえずされるがままに横になったあたしの隣で、ガウリイもよいしょと
肩肘をついて横臥して。

「……で?」
あたしの口から出た声は自分でも意外に思うほど冷静だった。

「で?って」
お前さん、そりゃあんまりにも酷くないか?と唇を尖らせた男の額にペチンと一発、
平手打ちのプレゼント。

「このクソ寒い夜中にしかもうら若い乙女の部屋に招かれてもいないのにやってきて、
許しも何もなしにいきなりのなし崩しで同衾に持ち込む男ってどう思う?」

「……相手が拒んでなけりゃあそれもありだと思う」

いけしゃあしゃあと嘯きながら、まふっと勢いをつけて覆い被さってきた
でかい身体をとっさに突っ張った腕ごと脇へと転がせば、
どたっと大きな音を立てて床に落ちる自称保護者の狼さん。

現、なんて呼んでやろうか呼称悩み中の相棒は、足だけをベッドの上に残した
てんでしまらない体勢になっていた。

それが無性におかしくて、ゲラゲラとおなかを抱えて笑ってやれば、
ムッとした表情のまま再びベッドという名の戦場へと戻ってきたので、
布団の中に潜り込もうとする相棒の為に身体をずらして場所を作り、
改めて頭を並べて横になった。

当然布団の割り当てはあたしの方に多く、ガウリイの側には少なめに。

少々身体がはみ出そうが文句など言われる筋合いはない。






「なんだよ、オレとお前さんの仲だろー」

「どういう仲だと思ってんのよ」

「少なくともいきなりこの位の距離を詰めてもイケる関係だとは思ってたんだが」
額がくっつきそうな近さで、違うのか?と、問う顔はどこか自信なさげで、
さっきまでの大胆さはどこにやったんだと問い詰めたくなってくる。

「それはあんたの思い込みでしょ? やむにやまれずの野宿とか
仕事上仕方なくってんならともかく」
あたしは口元だけで笑って見せて、目の前にある高い鼻をぎゅっと摘んで
潜めた声で言ってやった。

「相棒の距離とそれ以上の距離の間には、容易に超えられない
深くて暗い川が流れてるって知ってた?」と。

「……用意がなけりゃ越えられないのか?その壁ってやつは」
そりゃ困ったと眉を寄せて唸るガウリイに、とりあえず腕を貸してと強請って、
あっさり借りられたそれを頭の下に敷きこんだ。

うん、ちょっと高いわね。それに硬すぎ。
だけど安心感は絶大だから良しとするか。

「リナ?」

すりっと頭ごと彼の方へと懐いてやったら、よっぽど驚いたのか
大きな身体がビクンと震えた。

「ちょっと手ぇ出されただけで途惑ってるんじゃないわよ、ばーか」
照れ隠しにもう一度、今度は胸の辺りを小突いてやる。

「いいの、か?」

「いーわよ、もう。あたしいい加減眠いし、今夜はあんたのあったかさに免じて
許してあげる」

それだけを伝えて、あたしはそっと目を閉じた。






向かい合った体勢で狭いベッドに横たわるあたし達は、
これからなんて名前の関係に変わるんだろう。

そんな事を考えていると、ガウリイの手が優しい手つきで髪を梳き始めた。

髪の間をすり抜けていく指の感覚が心地よくて、つい、ほうっと吐息を
洩らしてしまったが、結局ガウリイはそれ以上仕掛けてこなくて。

「おやすみ、リナ」
良い夢を。

耳元で聞こえた囁きに、とうとうあたしは心の中で白旗を掲げた。

いや、それこそ最初から用意してあったものを再認識したに過ぎないんだけど。
結局彼のこういうところも含めてガウリイの全部好きなんだろうな、あたしは。

隣で用意って何すりゃいいんだよ・・・と唸ってる、もうすぐ恋人になる人の声を
子守唄に、あたしはゆっくりと夢の中に落ちていった。