狂った風が吹き荒れる。
 バサバサと乱れる髪を片手で押さえつつ、あたしはただ、真正面をひたすら睨みつけた。
 あたしの前にいるのは、一人だけ。
 長い時間を共に過ごした「彼」だけが立っている。
 ただ一人、このあたしから全幅の信頼を得た人だった。

 腰に手をやり、扱い慣れた短剣の柄を握り締める。
 魔法は使わない。
 もう、あたしには使えない。
 この人を傷つける為の魔法なんて、最早どこにも存在しないのだから。
 いずれ時が来れば回復するのか、生涯魔力を失ったままなのか、それすらも。
 だからあたしは、この身体一つで彼に立ち向かわねばならないのだ。
 バシバシ叩きつけるような強風にも、彼は揺らぎもせず真っ直ぐにあたしを見つめている。
 神殿の彫像のようなその姿を、不覚にも綺麗だと思ってしまった。



 あたしを裏切ったのは彼。
 彼を裏切ったのは・・・あたし。
 そんな意図はなかったにせよ、自分で選択し、実行した事実は取り消せない。

 彼はただ、静かにそこに佇んでいた。
 このまま時間が止まってしまえば、不毛な修羅場を演じずにすむのだろうか。
 許すのか、許されるのか。
 感じる事すら出来ぬほどの速さで時間が過ぎれば、互いの罪は彼方に押しやられて薄まり消えてしまうか。

 いや、それはない。
 あたし達は、そんな風には終われない。
 こんなぐだぐだの、曖昧な関係を続けるなんて出来るわけがない。
 そんな所は似ているあたし達だから。



 少しだけ、柄を握った手を動かす。
 たったそれだけで、鞘口から銀色の刀身が姿を現した。
 そんなに力を込めたつもりはなかったのに。なんて軽い感触だろう。
 あたしは、この剣を抜いてどうするつもりなんだろう。
 まるで他人事のように、光を弾く切っ先に目を落とした。
 鈍い光を内包する金属片。
 彼は・・・動かない。
 いつも顔を隠している長い髪が風に撒かれて、端正な顔が曝されて。
 しかしそこからは、何も読み取る事はできなかった。
 怒りも憎しみも哀しみ失望も何もなく。
 表情、と呼べるものすら微塵も浮かんではいなかった。
 あったのは「無」だった。
 ただそこにあるだけの物体。
 目の前の彼が血の通う生き物だと思えないのは、身じろぎ一つしないから。だけではなかった。



 あえて駆け出したりはしなかった。
 ゆっくりと、噛み締めるように歩を進める。
 彼の元にと歩み寄り、握りしめた短剣を振り上げ狙ったのは、瞬きすら忘れたようにあたしを捉え続けている青い瞳。
 急に強く唸りを上げた突風が、二人の間を切り裂いて。
 それを合図に、彼が動いた。

 一瞬、身体の線がブレる程素早く彼の腕が伸び、あたしの手を握り拘束した。
 握った短剣の柄ごと、機械のように揺ぎ無い力で。
 もう一方の腕はあたしの腰を攫って、身体を持ち上げられて宙に浮かされてしまう。
 こうなったらもう、あたしに勝ち目なんて万に一つも残ってないじゃない。

 「・・・リナ」
 静かな声。
 穏やかな響きの、ガウリイの声。
 聞き慣れていた筈の彼の声音は、ざらざらとした違和感を伴って届いた。
 この世の、誰よりも、何よりも、大切だった人の・・・声、なのに。
 「・・・どう・・・し、て」
 どうしてそんな事になってしまったの?
 事実を知って以来、聞きたくて。
 でも知る事で壊れる先が怖くて、ずっと聞けなかった言葉をようやっと吐き出した。

 あたしの、抗う力を失った手が、たった一つの武器を取り落とした。
 まっすぐに落ちてサクリと地面に刺さったそれはもう、取り戻せない。
 「・・・どうしてあんたはそんな事になっちゃったのよ!!」
 全力でぶつかってもびくともしない、冷たい身体。
 熱も呼吸も忘れた唇、ガラス球の瞳と作り物の髪。
 至近距離から見れば嫌でも判ってしまう、かすり傷一つ見つけられない滑らか過ぎる肌。
 喉仏にうっすらと刻まれた刻印こそが、この身体が紛い物であり、自動人形である証。

 「・・・なんでよ、どうして一人で逝っちゃったのよ!!」
 得物を失った手で、紛い物の金髪を掻き抱き。
 あたしは、彼の腕の中で暴れながらありったけの絶叫を叩きつけてやろう。
 「あたしの事を置いてくなんて! そんなのっ、絶対にっ!認めないんだからっ!!
 あんたがっ!! あんたが、こん・・・な・・・や・・・だ、ょ・・・」
 だのにどうして? 
 どうしてあたしは、こんな、バカみたいにぐしゃぐしゃになって泣いている?
 呼吸過多の肺が、じくじく腫れてきて痛いのに。

 一呼吸毎に頭の芯が沸騰してって、みるみる思考がぼやけてった。

 勝手に湧いて霞む視界の先の、精巧に作りこまれたガウリイの顔を追っかけて。

 追いかけて。

 追いついて。

 渾身の力を顎に込めて、喉笛に喰らいついた。刻印ごと、一緒に。

 それこそがガウリイの魂を現世に繋ぎ止める鋲だと知りながら、あたしはそれに歯を立て噛み砕き破壊した。
 ひゅうっ、と。笛のような音を最後に、自動人形はあっけなく活動を停止して。
 よろよろと砕けた箇所からまろびでた魂に、あたしはそっと唇を寄せて、一息に吸い込み力づくであたしの胎内に収めてやった。
 最初は出口を求めて暴れていたけど、身体の上から手を押し当てて『ここよ』と居場所を知らせてやると、最後には観念したのか示した場所に落ち着いてくれる。
 「そうよ。 あんたは、ずっとあたしといればいいの」
 自由なんてあげない、勝手に転生なんてさせてあげないんだから。
 あんたは、あたしの内にいればいい。
 時が来たら、ちゃあんと出してあげるから、ね?
 相棒としてではなく、一人の女としての最大の我侭を貫くあたしを、いつかあんたは叱るかしら。……ま、叱られようが呆れられようが構いやしないわ。
 もう一度、同じ時を生きられるのならば。

 ガウリイのいる場所に、そっと手を押し当てる。
 今、あたしは微笑んでいるに違いない。

 歪めた唇の傍をかすめて、涙が一粒転がり落ちていった。