「あのね、抱いて。何もかも忘れたいの」
 ある夜。
 かすれた涙声でリナがオレに告げた願いは、とても甘くて残酷なものだった。

 「あたしを抱いて、何も考えられない位感じさせて?ねぇ、あんたならできるでしょう? 経験がないなんて言わせない、キスだけであんなに女を蕩かせることができるんだもの。ガウリイ、お願いよ。もう疲れたの。何にも考えずに眠りたいのよ、ねぇ、お願いだから、あたしに深い眠りをちょうだい。くたくたに疲れて泥の中に沈むみたいに眠りたいの。目を閉じる度に見える爆炎なんてもういらないの。ねぇ、助けてよ。あたしのことを愛さなくてもいいの。身体を繋げたからって責任を取れなんていわないから。もうこんな手段しか思いつかないのよ。あたしの手を染めた血の色、消えてくれないの。どんなに忘れようとしても消えてくれないの、許してくれないの。ねぇ、助けて。ガウリイ、あんたならできるでしょう?その逞しい腕であたしを抱いて、抱いて、抱き潰してよ。この喉はもう意味ある言葉を紡ぎたくないの。両の瞳だって休ませたいの。夢の中でまで死体や炎や惨劇ばかり映すんだもの。いっそ何も見たくないのよ。ねぇ、ガウリイ、あんたの腕の中でならきっとあたしは眠れるわ。でも、ただ抱きしめられるだけじゃあダメなの、きっと。快楽に叩き落して。ガウリイ、あんたから与えられる感覚にこの身体全部を委ねたいの。思考すらしたくない、理性なんて要らないの。獣みたいに喘いで、啼いて、叫んで、突かれて疲れきってしまえば、意識と一緒に何もかも全部手放してしまえる筈なの。だから、ねぇ、抱いて?あんたがあたしをそういう対象で見ていなくても。あたしを愛していなくても、身体が反応すれば抱けるでしょう?」


 狂気の様な早口で強請りごとを捲くし立て、全身から滴るような艶と儚さを纏ったリナが縋ってくるのを、呆然としながら受け止めた。

 オレにどうしてお前さんを拒絶する事が出来る? 惚れて惚れて惚れぬいた女がオレに抱いて欲しいと願い、躊躇いも恥じらいも忘れたようにその身を投げ出してくるのを、拒絶することなどできるわけがなかった。

 願いを叶える為という大義名分に乗っかっちまえば、目の前の女は今すぐ全部オレのものになるんだぞ。

 ……わかってる、今のリナはまともな状態じゃない。
 降り積もった心労に耐え切れず、精神が壊れかかっている。
 だからこんな風になりふりかまわず縋る先を求めて、とうとう快楽に逃げ場を定めたんだと判っていながら、引き剥がす事なんかできっこなくて。
 でもな、愛しているかどうかなんてどうでもいいとか、それは違うだろうリナよ。
 お前さんはオレの事をなんだと思っているんだ。
 ――――確かに昨日、あの女にやられたよ。
 迫られて唇を重ねたのは本当だ。
 それ以上は阻止した、っていったって、リナにとっては同じなんだよな。
 リナ以外の女に触れること自体が裏切りだもんな。
 長い時間を過ごしても手を出されなかった、だから自分は女として愛されていない、愛されるに値しないなんて思い込もうとして失敗して。
 ――――だから頭の良いのも良し悪しなんだよ。
 直感で感じてくれればいいんだって何度言えば判るんだ?
 オレが欲しいのはお前だけで、あの女はオレが欲しい品を持っていて、それを譲ってくれる条件があのキス一回だったってだけなんだ。
 取引以上の意味なんてない。オレにとってはただお互いの唇が重なったってだけでしかない。大人の汚い言い訳だって、お前さんは怒るだろうけど。




 「ガウリイ、好きよ。愛してる。だから抱いて? なんだってガウリイの好きにしていいから。手加減なんていらないから。優しくなんてしなくていいから。お願い、あたしに我を忘れる位の快楽を」ねぇ、ちょうだい?
 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、リナがオレの首に両腕を回す。
 しなだれかかる柔らかな身体と、ほのかに香る甘い体臭。
 すべらかな肌の感触。何もかもがオレの感覚に訴えかけてくるんだ。魅力的な異性がいる、さあ、喰らえ、と。 
 ああ、頭がくらくらする。
 男の欲ってのは女よりも肉体に直結しているらしい。それを今、身を持って実感しているよ。
 好きだからこんな形であってもリナが欲しいし、触りたいし、キスもしたい。
 ああ、肌を重ねてリナの中に潜り込めたなら、オレの欲をリナの中にぶちまけてそいつが彼女の腹の中で芽吹いたなら。ゾクゾクと背筋を駆け昇ったのは、強烈な劣情と支配欲、だった。



 縋る両腕を取り上げて、片手で一つに纏め上げる。額から奪ったバンダナで細くなった手首を縛めて、軽くなった身体をベッドに横たえて、薄く開いた唇にありったけの情欲と愛情を込めて唇を重ねて舌をねじ込み蹂躙する。
 バカな事を考えてくれるな、お前さんの望むものならなんだってやる。だから、頼むからそんな今にも死にそうな眼なんかするんじゃない!

 抵抗しない身体から衣服を剥ぎ取り、性急に愛撫を施していく。
 どこもかしこも甘くて、魅惑的で。あっという間にオレは劣情に飲み込まれてリナを夢中で貪って。だから、気付かなかったんだ。リナが、純潔を失う瞬間に零した言葉に。

 これであんたのことも忘れられると、呟いたことに。




**********




 手の中のナイフは温かな血に塗れていた。
 当然それを握り締めているあたしの手も腕も足下も、滴った血潮で赤黒く染まっている。
 床には、一人の女が転がっている。
 栗色の髪とミルク色の肌、小柄な体躯の息絶えた肉体。今は閉じている瞼を押し上げれば赤い瞳が見えるだろう。
 コピー・ホムンクルス。
 あたしの体細胞を培養して作った人造人間、記憶こそ共有しないものの肉体を構築する情報は基となる細胞を採取した時点のあたしそのものを保っている。いや、いた。死んでしまったその肉体はもはやあたしと同等ではないし、この後は時間の流れとともに朽ちていくだけだ。
 最初から殺す為に作った、もう一人のあたし。
 各地に設けていた隠れ家の一つで培養したものだったが、急場しのぎの促成培養にしては上出来の仕上がりだった。だからここで、こうして使ったまで。
 過去、敵対したコピー達に僅かな憐憫を抱いたことを思い出す。
 今も一人で生きる彼女を忘れたわけでもない。
 だけどそれも今更だった。
 既に他者の血を全身に浴びるようにして生きていたこのあたしが、今更自らの分身に手をかけたところでなんだというのか。そもそも『彼女』に魂はあるのか、なんて考える事もしなかった。
 これは「魔道士リナ=インバース」という一個人の存在を抹消する為には必要な事だった。だから、あたしはこの手で生まれたての『あたし』を殺した。


 クロゼットの中に隠しておいた服を着て、荷物袋を手に窓から抜ける。
 適度に室内を荒らしておいたから一見物取りの仕業に見えるだろう。……ま、彼が起きればまた違ってくるのかもしれないけど。
 隣室で深い眠りに落ちている想い人の顔を思い出して、さようならと手を振って歩き出す。
 自分流の別れは済ませたつもりだ。
 もしかしたら彼はしばらく混乱するかもしれないけれど、じきに諦めてくれるだろう。
 これが茶番だと気付かないほど、本物のバカじゃない。彼の装うくらげのような頓着のなさやらボケっぷりは、見せ掛けだけだと知っている。あたしがあんな行動を取った事とこの件と、それから少し前から燻り続けているあの件については少し情報を集めれば、なんとなくでも分かるだろう。
 あたしが、こんなに手間のかかることをしてでも姿をくらましたいと願ってるって。

 ―――――もう、人と関わる事も、魔族や神族に利用されるのも真っ平ゴメンだ。

 仲間達と切れることも、ガウリイの手を離すことも辛いし寂しい。
 本音を言えば彼だけは手元に残しておきたかった。
 でも、そうすることで不幸にするのは目に見えていて、彼までもあたしの所為で不幸にすることに耐えられなくて。
 郷里にも二度と顔を出す事はないだろう。たとえそれがねーちゃんの呼び出しであろうとも、あたしはこれ以上誰も巻き込みたくもない。
 長くないだろうこの先の人生は、一人きりで歩くんだって決めたんだから。

 胸の奥に燻る黄金の闇が、早く早くと急き立てる。
 彼の存在の末端、塵芥ほどにも満たない欠片ですらないそいつに影響を受け続けていることと、その力を利用しようとする者達がいて、彼らの意に染まぬと知れば平然と脅迫を仕掛けてきた。
 直接手を下す者を屠り尽くしたと思っても、次から次へと新手が湧いてやってきた。人間相手だけでも疲弊するというのに、それ以外の存在もアプローチしてきては衝突したり戦闘になったり。穏便な解決なんて望めない、最初から駒としての働きしか期待されない、邪魔になるなら死んでくれと正面切って罵られたりもした。
 ……うん、改めて数えてみたら鬱にだってなるわよね。
 ようやっと二十歳に手が届くかどうかって年頃の娘が負うべきものじゃない。
 ま、とりあえずは一人になってそれからじっくり考えよう。
 落ち着く場所に落ち着かなきゃ纏まるものだって纏まらないだろうし、そもそも心が休まらない。獣が塒に篭って傷を癒すように、まずは心の傷を癒さなくちゃ。このままだと早晩精神が破綻する。
 既に影響は出ていて、それの所為で綺麗なまま別れるはずだったガウリイと肌を重ねてしまったのだから。


 真っ暗な夜道を歩きながら、ガウリイとの行為を思い出す。
 「すごく、熱かった」
 何をされたか思い出すだけで感触も匂いも味も、痺れるような感覚も鮮やかに甦って、背筋がゾクリと震える。
 夢でも幻想でもなく、あたしは確かに宝物のように扱われて、普通の女のようにガウリイに抱かれた。
 鍛え上げられた肉体の熱さ、筋肉の硬さと肌の滑らかさ。舌のぬめりも唾液の味も彼の手指の繊細な動きも。それから、彼の剛直を受け入れた時の痛みと、とても言葉になんて変換出来ない位の悦びも。
 このあたしを、リナ=インバースを構成するどこもかしこも愛しいのだと、嬉しそうに手と舌と唇で触れてくれた。
 彼が触れた箇所から痺れるような快感が広がって、全身を駆け巡って辿り着いた下腹部がぐうっと疼いて重くなった。
 身体中どこもかしこも怖い位敏感になってしまって、新たな刺激を受けるたびに縛められた腕が擦り切れるのにも気づけない程、目の前の身体に必死に縋って啜り泣いた。
 未通のそこが緩むまで、彼自身を受け入れられるようになるまで解されている間中、燃えるような羞恥心と一緒に、そんなことまでしてくれるのかと驚き、幸福に酔い、快楽に翻弄されて……我に返る瞬間、とてつもなく哀しかった。
 全身でガウリイの熱を受け止めたいのに、頭の片隅に留まる氷のように冷静な『あたし』が少し離れた場所から狂熱に溺れそうになってるあたしを眺めて嘲笑う。
 『欲望に素直なのがあなたでしょう? その男に溺れたいなら世迷言など考えずに沈んでしまえばいいじゃない。誰がどうなろうが関係ないでしょう? 総ての責を負わなきゃなんてバカらしい。他人が死ぬことに気を病む位なら、先手を打って立ちふさがる何もかもをぶち壊してしまえばいいじゃない』
 リナ=インバースという存在自体を抹消するか、誰が傷つこうが知るものかと向かってくる有象無象を片っ端から蹴散らし退けるのか、それとも己の誇りを捨てていずれかの組織に属するのか。
 ぎしぎしと鳴るベッドの上で熱い楔に貫かれながら、どの道を選ぼうとも、結局は彼を傷つけるのかと涙が溢れた。



 ようやっと一番近い隠れ家に到着した頃には、夜は明けて朝日が頭を覗かせていた。
 とある山中の洞窟の中、というのではない。
 あの宿から少し離れた場所にある村の外れに構えた一軒の廃屋の中、隠し扉を潜って更に数分歩いた先に地下研究室を設けたのは、一人旅をしていた頃だ。あの頃はむやみやたらと盗賊討伐が楽しかった。
 一応この村に迷惑をかけないように偽名で所有している家だから、追っ手に気付かれる心配は少ない。
 当分の間ここで過ごすつもりだ。
 事前に食糧などは運び入れてあるから半年程度は外に出る必要もないし、快適に暮らせるように整えてある。
 柔らかな布団も興味をそそる書籍の類も、必要なものは悉く揃っているから、あとは何も考えずに眠りたいときに眠ればいい。夢すら観ずにすむように、暗示を封じた水晶球とハーブも支度してある。
 万が一、ここを何者かが嗅ぎつけたとしても、その時はその時だ。
 むざむざ殺されてやるつもりはないけど、死ぬなら眠っている時に一息にお願いしたいものだ。生きてるだけで苦しいのに、死ぬ時まで苦しいのなんてゴメンだもの。

 ご飯を食べて、真っ白な貫頭衣に着替えた。
 旅装は纏めて倉庫の中に放り込んで、湯浴みは流石に出来ないからお湯で絞ったタオルで全身を拭く。うっすらついた汚れは返り血だろうか。
 何もすることがなくなってから、寝室に篭り厳重に鍵をかけてからベッドに潜り込み、大きく息を吸い込んだ。
 「うあああああああっ!! ガウリイ!! ガウリイっ!! ガウリイぃぃぃ!!!!!!」
 自分を許して、腹の底から搾り出すように、叫び、咽び泣いた。
 ひっきりなしに込み上げてくる愛しい、寂しい、悲しい、会いたい、別れたくない、会いたい、もう一度抱いて欲しい、そんな気持ちを余さず声にして喚いて、吐き散らす。
 こんなこと、ここじゃなきゃできない。
 誰かの耳に入れば即、弱点として突かれてしまう可能性がある限り、閉ざされた場所でなきゃ喚けなかった。
 「ガウリイ、ガウリイ、ガウリイ、ガウリイ!!」
 あたしの中をガウリイで埋め尽くそうと、できる限り彼の仕草や声、姿形も何もかもを思い浮かべて、愛しいの代わりにガウリイ、と叫んだ。
 吐き連ねる愛しい男の名前がうゎんうゎんと部屋中にぶつかり反響して、全身余すところなく震わせる。
 彼の手に抱かれる代わりに自分自身の両腕で頼りない自分を抱きしめて、血を吐くようにガウリイ、ガウリイと叫び続けて、力尽きたあたしは、そのまま意識を手放した。



**********


 むくり、と、だるくて重い体を起こした。
 薄暗い室内は見慣れないもので、一瞬ここがどこだか分からず焦ったけど、すぐに隠れ家の中だと思いだして安堵の息を吐く。
 そうだ、あたし、久しぶりにここに着たんだった。
 とりあえず慌てる事はないか、と、もふもふの掛け布団に顔ごと突っ込んでふかふかの感触を楽しむ。
 奇妙なほどすっきりとした、良い気分だった。
 思う存分泣き喚いたから、とだけでは説明の出来ないような、今までと何かが違っているとだけしか分からないけど、ずっと胸につかえていた重苦しいものが綺麗さっぱり消え失せている。
 「あれ、あたし、まだ何もしてないはずよね?」
 両手を心臓の上に置いて自問しても、何をどうこうした覚えは欠けらもない。精々しっかりと食べて、泣き喚いて、泣き疲れて眠りたいだけ眠っただけだ。
 しかし違和感は拭えないまま、どうにも落ち着かない気持ちをどうにかしたくて、とりあえず換気口を開きに向かった。
 地下空間である隠れ家には当然外気を取り込むための換気口が幾つも存在していて、常時開いているものの他に手動で蓋を開閉させられるものがある。
 換気機能を持たない地下研究所などただの倉庫だ、そう言い遺したのは古の魔道士スティル=ムラウだそうだが、死ぬ前に気づけと思ったものだ。魔道を研究する知能があるなら窒息の危険性について考えろ。
 リビングに相当する部屋の換気口を開いて、ついでに耳を欹てて外の音を探る。
 換気口=伝声管の機能も併せ持つ。つまり、ここを開いている間は静かにしていないとこちらの生活音も外に響いてしまうということだ。
 聞こえるのはがさがさという枯れ葉の擦れる音と、ざくざくと落ち葉を踏みしめる誰かの足音。
 人間が近くにいるのであればと、うかつに蓋を閉じる事は躊躇われた。
 一応岩などでカモフラージュはしてあるが、触れてもいないものが突然動いたら人目を引いてしまう。
 スースーと外から吹き込んでくる新鮮な空気を吸い込んで、音が止むのを待った。
 ある程度距離がある所為でどんな奴なのか、もしくは大型獣やオークの類かなどはわからない。まぁ、そもそもこの村の周辺にゴブリンオークの出没情報はないはずだったが。


 しばらくじっとしたまま外の空気に触れているうちに、いつの間にか微笑んでいたことに気がついた。
 なぜだかとても穏やかな心持ちで、昨日なにもかもを捨てた身とは思えないほど気持ちは凪いで平らかだった。
 これも起きた時の感覚と同じ原因によるものなのか、それとも別の要因があるのか。
 目を閉じてぺたりと床に座り込んで、心の内側を慎重に探って、今の心境と最も近いシチュエーションはなんだろうと、浮かぶ順に今の状態と重ねてみる。
 あたたかな春の日差し?
 柔らかに吹く風が髪を撫でて通り過ぎていくような。
 どうしてだろう、外からの空気にあたしを安らがせるような何かが混ざっているとでも?
 かさり、一際大きな音が鳴った。
 ずざっ、どすん。
 何者かが出口付近に座ったのか、大きな音の後には静寂が続く。
 相変わらず外気は優しくて、胸いっぱいに吸い込む度にぎゅっと心臓が苦しくなって、でも心はこんなにも穏やかなまま。ううん、少しずつ何かが満ちていく。
 この感覚には覚えがある。
 寄せ合った肩の温もり、穏やかな声。
 あたしの隣でうたた寝している大きな身体。
 「……がう、りい」
 口を突いて出たのは、世界よりも大切な存在の名で。
 最後の音の余韻が消えるまで、あたしはうっとりと愛しい男を想っていた。
 一度きりの触れ合いはまだ記憶に新しく、肌には感触すら残っている気がして、身代わりに自分の腕で自分を抱きしめて、もう一度だけ愛しい人を呼んでみた。
 小さく、それこそ囁くよりも密やかに。

 なんとなく、もうガウリイのことを無理やり忘れなくてもいいんじゃないかと思えた。
 あの日、あの瞬間には狂ってしまうんじゃないかと自分が恐くて、壊れた自分が直接間接を問わず彼に危害を与えてしまうんじゃないかと恐ろしくて。一度だけでいいから、そう願って望みが叶ったなら、幸せな気持ちだけを残してガウリイ=ガブリエフに関する記憶を総て封印してしまうつもりだった。
 他者の手による記憶操作ならいざ知らず、自ら望んでかかる暗示ならば多少の指向性を持たせる事は可能なはずだったから。
 この身体に金色の王の残渣が僅かにでも残っている限り、平穏など望めない。
 だけど、じゃあそれが消え去ったなら? 
 彼の存在の影響が消え去って、元通りのあたしに戻ったなら?
 禁呪の知識を消す事は出来ないし、未完成バージョンなら発動させる事は今でも可能だろう。でも、タリスマンを失ったあたしに付与されて一時的に魔力増幅状態を作り出していた影響が消え去ったとして、その場合あたしは元通りのリナ=インバースに戻るのか。
 影響が抜けた場合どうなるのかを頭の中で幾つかの可能性を精査して、元の状態に戻るのが自然だろうと結論付けた。
 ならば、なにがきっかけになりそうなのかを考えなくては。
 タリスマンを失って、なおも増幅呪文を詠唱すれば効力があると気付いてから半年、髪が銀に染まるほど魔力を使い果たしても何も変わらなかった。一度身を清めればどうにかなるかと神域に身を置いた時には逆に影響が強まって困り果てるわ神族の使いとやらにとりあえず始末するとかなんとか、どっかの魔族とどっこいのセリフを吐かれたもした。

 「ねぇ、まだいるの?」
 凪いだ精神状態を利用して、深く深く、アストラルサイドに限りなく近い場所まで精神を沈めて残り香のような金色の気配を探すが、見当たらない。
 ついこの間まではここまで深い場所にくれば、某かの痕跡を見つけられたというのに。
 もしかしたら、既にアレはあたしの中から消滅したのか?
 もしくは影響を及ぼさないレベルまで薄まったのか。
 ならば目覚めた時から続いている清々しい心持ちは、やっと『あたしだけ』の状態に戻ったから?
 これはあくまで希望的見解に過ぎない。でも、もし本当にそうだったら。
 「ガウリイと、一緒にいられる?」
 もう一度、ガウリイと一緒に旅ができたらと想像したら、ほわりと胸が熱くなった。
 ……でも、もう手遅れだ。なにせあたしはガウリイに屍を晒して逃げだしたんだから。
 希望を絶望で擂り潰し、今度はズキズキと痛み出した心臓を、分かりやすい奴だと押さえつけて宥めてやる。
 ガウリイのことだから、今謝ったら許してくれるかもしれないじゃないか。
 今ならまだ間に合うかもしれない、竦んでいたら何も出来ないって知ってるでしょう、リナ=インバース!
 あの女の存在は気になるけど、指を咥えているだけじゃあダメだった。やけくそでも、気持ちをぶつけて一度は願いが叶ったんだから。
 「あたしを、許してくれる?」
 この世界の誰に存在することを否定されようが、傷つくのがあたしだけなら構わない。 なんと言われようが図太く生きて生き抜いてやるって、今のあたしなら断言できる。
 たとえそれで命を落とそうとも、最後まで前を向いていられるだろうって確信はある。

 「一緒に戦わせてくれるんなら、喜んで」
 換気口から聞こえた声に驚いたあたしは、飛び上がって勢いのまま叫んでいた。
 「ガウリイ!?」
 相変わらず換気口からは外からの風が流れ込んできていて、そこには心安らぐ気配が混ざっていて。
 「物騒なかくれんぼは終わりにしよう。リナ、外に出てきてくれよ」
 パイプ越しの優しすぎる許しの言葉に、あたしは思わず恥ずかしいから嫌だと、叫んで蓋を閉めてしまった。



*********



 「おいおい、ここは二つ返事で飛び出してくるところじゃないのか!?」
 ぱたん、と閉じた管の蓋をこじ開けようと両手で掴んでこじ開けて、ガウリイは大声を張り上げてやったが。
 「いやよ、せめてもうちょっと気持ちを落ち着ける時間があったっていーでしょ! 以上、通信終了!!」
 再びパタンと蓋が閉じて、今度は手の力では開かなくなった。
 「……お前なぁ、あの日、オレがどんな思いしたと思ってんだよ」
 この状況で怒るな、とか、流石に言わんだろうなぁ? 
 剣の柄に手をかけるガウリイのこめかみ付近が怒りにひくつくのを見たものは、幸いにもいなかった。が、数瞬後、轟音と共に吹き上がった土砂と土煙を見た村人は多数存在していて、彼らは土地の神がお怒りじゃ、巣篭もりじゃ、潔斎じゃあと右往左往することになる。



 その後、天国から地獄を実体験した男の小言が地中深くから漏れ聞こえるのを、祟りを恐れた村人達は布団を被り耳を押さえて決して内容を聞くまいと震えて過ごし。
 数日後、漸く静かになった荒地を訪れた村人達は、無造作に置かれた宝石の類を見つけてその処遇に頭を悩ませたという。