See me







ゆったりとした動作で、あたしは分厚い本の1ページを捲った。

多くの人の手を経てきた為か手元の角が擦り切れていて
かすかな風と共にパラリと音を立て繰られる紙からは、
埃っぽい、いかにも古書めいた匂いが鼻についた。

ふうっと、ページの隙間に挟まっていた塵を息を吹きかける事で払いのける。

この本が作られてからかなりの年月が経っているのか、文字を書きつけている
インクの色すら所々変色し、かすれたりしていて読みにくい事この上なく、
しかも書かれている文には古い言語が使われていて
一々現代語に訳しながら読まなくてはいけないのだ。

求める知識はこの中にあるというのに、解読作業は中々思うようには進んでくれず
知らずのうちにイライラが募る。

それでも何とか開いたページを読み終えて、次のページを捲ると
唐突に、小さな何かが目の端を掠めた。

あたしは、とっさにそれを手近にあったルーペの下に押さえ込む事に成功した。

と言ってもそれを潰してしまったわけではない。

ルーペという物はレンズを保護する為に、枠の部分がガラス面よりも
やや出っ張っていて、そこにはある程度の空間が作られているのだから。

一体、何・・・?と、ルーペを固定したまま上から眺めると
枠ギリギリの場所で、慌てたようにしきりと動いている小さな生き物がいた。

よくよく見ると、それは・・・一匹の紙魚だったのである。

紙魚というのは古い本に良く湧き、糊を食み、紙を食す。

ただ、今あたしの目の前にいる虫は、普段見かける紙魚とはやや違っていて
通常ならばまるで甲冑のように見事な銀色の背中を晒す筈が、この一匹に限っては
見事な黄金色であったということだ。

「これ、新種かしら?」

しげしげと紙魚を眺めると、彼(彼女!?)は所在無さげに身を捩り、何とかこの場から逃げようと
コソコソと動き回り、逃げ場を探っているばかり。

まぁ、この様子では手ずからルーペを傾けて退路を作ってやらなくては逃げようもないだろうから
新種かどうかの確認は後にして、今はとにかく本の解読を優先させよう。

あたしはそう判断し、視線をルーペに閉じ込められた憐れな虫から、手元の本に向けて・・・。

「何よ、これ!!」

文章がいよいよ知りたかった核心部分に到達、という場所に
大きな、あたしの指が2本は通りそうな立派な穴が空いていたのだった。

しかもご丁寧に文章を刳り貫くように穴が空いているおかげで
そこに書かれていたであろう言葉は解読不能。
せめて文字の上下だけでも残されていれば、形状から単語を
推測することもできるのだろうが、綺麗にインクの染みた部分だけを虫に食われてしまっていては
話の前後から内容を推察するという手も、使えそうにない。

「こんな大穴が開いてちゃ、肝心な部分の解読ができないじゃない!!」

何の為に数日をかけて本の解読に挑んだのかと怒りに震えていたあたしに
「あの・・・」と。どこかから、まるで蚊の鳴くような声がかけられた。

「何よ!!」

怒りに任せて荒い口調で答えながら背後を振り返るが・・・誰もいない。

「誰!? 人をからかって面白がるような奴には容赦しないんだからね!!」

感情のままに手にした本を、扉に向かってぶん投げようとした時だった。

「だから、オレはここにいるぞ?」

か細い声は、すぐ近くから聞こえた。

「誰!?何処にいるの!!」

ますますいらだって叫ぶあたしに「オレはここだ」と声の主。

不審に思いながら、声のするほうに耳を澄ませてみると・・・
声がするのは今まさに自分が使っている机の上。

その端の、分厚いレンズを重たげに支えているルーペの下から聞こえてくるのである。

「えっ! オレって、あんたなの?」

まじまじとレンズ越しに小さな虫を見つめる。
それは心なしかブルブルと震えているようにも見えたし、更には
こちらを見つめ返しているようにも思える。

「そうだよ。 頼むからこの重いレンズを持ち上げちゃくれないか?」

やや低くて柔らかな声は、間違いなくレンズの下から聞こえたようだった。

珍しい色彩に人語を解する不思議な虫。

「ダメよ、あんたを逃がすメリットがあたしには無いわ」

なんて興味をそそるのだろう。

新しい研究対象にしてもいいし専門機関に売り払ってもいい。

ただで逃がすなんてもったいない。

そんな考えを読まれたのだろうか。

「う〜ん、それなら一つ取引と行かないか?オレがそこに書いてあった
言葉を教えるから、代わりにオレを自由にしてくれ」

「あんた、ここの部分に何が書いてあったか知ってるっていうの!?」
驚いて聞き返したあたしに彼は
「ああ、そこは昨日食っちまったんだ」とあっさり白状した。

「食べたですって〜!!」

この、貴重な古文書のそのまた貴重な核心部分の文字を
この小さな虫が、事もあろうにお食事にしてしまったというのか。

「なんでまた、こんな貴重な本の、しかも大事な部分を食べたりするのよ!!」

怒りで目の前が赤く染まりそうになりながら叫んだあたしの剣幕に驚いて、
紙魚はビクンと身をちぢ込めた。

それから(不思議な事に)細長い流線型の身体を折り曲げてあたしに向かい
お辞儀をするかのように頭を下げ、こう述べたのである。

「だってなぁ、新しい本の糊は癖があって食えたもんじゃないし紙も硬くて美味くない。
時間の経過してこなれた本でも、無地の部分は食っても全然美味くないんだ。
インクのついてる部分はまだマシだけど、単なる数字とか句読点なんかは
スカスカした味で食べようと思わないし、お前さんの言う所の貴重な本の
特に意味のある単語こそが俺達にとっては最高の美味なんだ。
・・・お前さんに必要な文字を食っちまった事は、すまん」

言い終えるとまた、ペコリと頭を下げる。

「あんた達にも味覚ってあったのね・・・。 って、あんた達は
自分の食べた文章とか単語を記憶していられるの?」

すっかりとこの小さな虫に興味を引かれたあたしは、純粋な気持ちで問いかける。

「皆が皆そうじゃないが・・・少なくともオレは覚えていられる」

「後学の為に聞いておきたいんだけど。あんた達が美味しいと思う単語や文章ってどういうのなの?」

「そうだな・・・」

紙魚は金の燐粉をハラリと撒いて「オレは、綺麗な意味の単語とか強い感情を表す言葉が
美味いかなぁ。『水晶』とか『煌めく』『騎士の誓い』『愛情』なんてのもいい味だったっけ」

一生懸命に説明する虫の姿にどうにも憐れを感じてしまったあたしは、交換条件を飲む事にした。

「いいわ。 今回は特別に逃がしてあげる。
その代わり今度からは文字を食べる時は上下の部分だけでも残しておきなさい。
そうしたらまだ何が書いてあったのが推測する事もできるんだから」

「ああ、今度から気をつける」

「じゃあ、あんたが食べたこの部分には何が書いてあったの?」

「それを今言ったら逃がしてもらえなくなりそうだから、お前さんがルーペを持ち上げてくれた時に教える」

心の隅で「やっぱり気が変わったわ」と逃がすのを止めようかと思ったのを読まれたようだった。

「じゃあ、1・2・3で持ち上げるから間違いなく答えを教えなさいよ?」

「ああ、紙魚に二言は無い」

神妙な声で誓う虫に笑いを誘われながら、あたしはルーペに手をかけカウントを取った。

「いい? 1・・・2・・・3!」

「Vous jurez dans l'etincelle・・・」

サッとルーペを持ち上げるのと紙魚が叫んだのは同時だった。

ハッと、言葉の意味を理解した時。







あたしは自分がうたた寝をしてしまっていた事に気がついた。
硬い木製の机に突っ伏して寝こけていたおかげで、すっかり頬が腫れぼったくなってしまっているし
ずっと開いていたと思っていた瞼も重く。

なんて鮮明な夢を見たんだろうかと、あたしは思わず周囲を見回してしまった。

すると。

既に彼の姿は何処にもなく、只、机の木肌の上に
かすかに金色の粉が散っていた。

あれは果たして夢なのか、それとも現実なのか。



紙魚が遺した言葉は「閃光に誓う」。
この意味をどう捉えればいいのかと、暫くあたしは頭を悩ます事になった。











この話の元になったのは澁澤龍彦のエッセー「文字を食う虫」です。
先日家の中で紙魚を見かけた折に昔読んだこの話を思い出して
そこからこんな想像をしてしまったのです。
(話を書き上げた後、エッセーを読み返してみると全然内容が違っていましたが(汗))

この話ではないのですが、やはり紙魚としてありがたい経文を食ってしまった為に
お坊さんに生まれ変わった時に、どうしても経文の一部分を暗記できない。
原因を突き詰めていくと前世でその文字を食べてしまったからだというのもありました。

夏だから、少し不思議話でした。