深夜、あたしは静かに宿を抜け出した。

無論、ガウリイには壁越しにスリーピングをかけて。

ただ、いつもと違うのはその目的が盗賊いぢめではない、と言う事だ。

なら別にガウリイを眠らせる必要はないんじゃないか?と言われても困るのだが、
とにかく今日は、いや、今夜は誰にも見咎められたくないのだ。

長年夢見てきた、ある目的を達成する為に。






ザザザザザ・・・。

深い森の中を、ゆっくりと移動する。

聞いた話によると、目的の場所は更に奥、この森の中心部にあるらしい。

「秋の特定日、天頂に満月がかかる時間に指定された場所に
あるという月長石の椅子に座り、心から思いを叶えて欲しいと
月に祈りを捧げる。すると願いが叶う」と。

但し、心の底から願った事しか叶わないし、
少しでも不純な気持ちが混じると失敗するとも聞いた。

正直、無駄足を踏む可能性もかなりあったのだが、
それでも気持ちを抑える事はできず。

事の真相を確かめようと、わざわざ寄り道してまでこの地に立ち寄ったのだから。



月に祈り願いを叶えてもらう。

そんなまどろっこしい事、普段のあたしならまずやらない。

大抵の事は自分の努力や力でなんとかするし何とかできるからだ。

それでもできなかったら涙を呑んで諦める事もあるが、自分自身でやれる事を
総て試し尽くした後だと、意外と悔いも残らないのものだ。

今回の件だって、昔からあたしはさまざまな努力を重ねてきていた。

それはそれは涙ぐましい努力の数々を。

毎日お腹がたぷたぷになるまで牛乳を飲みまくったり、効き目があると
噂のハーブを見るのが嫌になるまで摂取したり。

西に食べれば効果が期待できるイモがあると聞けばお腹を壊すまで食べまくり、
東に豊胸体操で大きくなった人がいると聞けば会いに行って、
ついでにやり方を教えてもらってひたすら実践。

胸筋を鍛えれば胸が育つと聞いて、弓を習ったり水泳に明け暮れる日々。

それでも効果が出なくて思いつめた挙句、蜂に胸を刺されれば一時的にでも・・・と
思いつめた事すらあったのだ。

そう、長年のあたしが追い求めていた豊かな胸を手に入れる手段として、
こんな胡散臭い話にも藁をもつかむ思いですがったのだ。

前々から「ボリュームがない」だの「まな板」だのあまつさえ
「大平原の小さな胸」とまで揶揄されるあたしのコンプレックスの塊。

自分では他の人よりもほんのちょっっっっぴりだけ、その・・・
小さいって、気にしていたんだけど。

それがこの程度の労力で解消できると言うなら、寄り道した分
余計にかかった宿代なんて安いものである。

ん?

ガサリと茂みをかき分けて。

その先に広がる風景にあたしは目を奪われてしまった。

そこは一面の草原。

細い草が一面に伸びその葉は月の光を反射して輝き、まるで夜の海のようだ。

その中ほどに、白く輝く何かが見えた。

もしかして、あれが・・・?

その清冽な輝きに惹かれるまま、あたしは草原に足を踏み入れ。

まっすぐに光るものを目指して歩を進めたのだが・・・。

「・・・おかしいわね」

なぜか一向に辿り着けない。

あたしは真っ直ぐ歩いているつもりなのに
どうも「それ」の周りをグルグルと回っているだけ。

これは、結界かしら。

やはりそう簡単に願いは叶えてもらえないって事か。

しかし、これで噂の信憑性はやや高くなった。

少なくともここには確かに何かがあるという証拠になる。

空を仰ぎ見ると、月はあと半刻程で天頂にかかってしまう。

急がなきゃ。

慎重に観察を続けて、あたしを拒む結界の境目を見つけた。

ここを越えなくては、願いは叶わない。

そっと手を伸ばすと、パシンと軽い衝撃が走るがそんなの気にしていられない。

目的の物はこの先にあるんだから、邪魔すんじゃないわよ!!

「あたしはどうしても叶えたい願いがあるんだからっ!!」
叫んだ瞬間、急に結界が消えた。

あまりのあっけなさにびっくりしつつも、そのまま中心で光る物目掛けて走り出す。

もう、時間がない。

もしあれがそうでないのなら、今回は間に合わないかもしれない。






そこにあったのは乳白色に輝く平らな岩。

「これ、全部が一つの月長石でできているのね・・・」

草原の中央に無造作に置かれたように見える椅子。それは滑らかな表面に
月光を受け、優しい光を放ちながら輝いていた。

誰かがこれを置いたのか、それともここにあった岩を加工したのかは
知らないけど。これがある事を、とても自然だと思った。

あたしはそこに腰掛けて、天を仰ぐ。

月はもうじき天頂にかかる。

あたしは目を閉じ、小さな声で祈りを捧げた。

「胸が大きくなりたいっ、 胸が大きくなりたいっ! 
ど〜んとナーガほどじゃなくてもいいから、せめてガウリイに
馬鹿にされない程度に大きくなりたいっ!!」

すると、背後に何かの気配を感じた。

それは優しい誰かの手を思わせる気配でもあり知らない気配でもあり。

もしかしてこれが?

「お願い、あんたが願いを叶えてくれるのならあたしの胸を大きくして!!
お風呂に入ったり、ガウリイに巨乳のねーちゃんが言い寄ったりするたびに
一々胸を気にするのはもう嫌なんだってば!!」

恥も外聞も忘れて叫んだあたしに、それが答えた。

「それは本当の願いなのですか?」

目を開けると、あたしに前に白い人物が立っていた。

髪も、肌も服も全部が白い。

乳白色の月の光が凝って人の形を取ったら、こんな感じだろうと思えるような。

「それほどまでに願う程の事なのでしょうか?」

どうも納得がいかない、とでも言いたげな問いは、
まるで鈴を振ったような涼やかな声で、小さく笑ったようだった。

「願っちゃ悪いっての!? ちょっと人より胸が小さいばっかりに
あたしがどれだけさんざん悔しい思いをしてきた事か!
さぁ、できるんならさっさと胸を大きくしてよ!!」

笑われた事にムカッとして、噛み付くように叫んだあたしに
その人は「まぁ、お待ちなさい」と優雅に微笑んだ。

「もう一度、自分の心と向き合ってごらんなさい。 それは本当の望みですか?」

「当然よ! その為にずっと努力してきたんだから!!」

「確かに、数年前までのあなたはそのようですね」

にっこりと微笑みながらその人物の手がすっと伸ばされて
いきなりあたしの胸を掴んだ!

「な、何するのよっ!!」

声は出た。

でも、身体は動かなかった。

いや、動かせなかった。

いつの間にか、あたしは金縛りにあったように指一本動かせなくなっていた。

「今まで幾多の願いを叶えてきたけれど、あなたのように
自分の願いに無自覚な娘は初めてですよ。
本当だったら、偽りの願いを祈る者の所になど降りては来ないのですが、
あまりにもあなたが可愛らしいから、つい誘われてしまいました」

口元だけで薄く笑いながら、身を屈めあたしの顔を覗きこんでくる。

その時初めて、目の前の人物があたしと変わらない年頃の女だと知った。

「ねえ、胸なんて。いくら大きくした所で、年老いれば艶も張りもなくなりますし
形だって崩れますよ? それでも欲しいのですか?大きな胸」

「欲しいわよ。 だって・・・」

「馬鹿にされたくないから?」

微笑んだまま、彼女はスイと身を離し。

「じゃあ、こんなのはどう?」

彼女は片手を自分の胸にやり服をくつろげて・・・。

晒されたのは、真っ白で小ぶりな乳房。

「これをこうすると・・・ほら」

繊手がそこを一瞬隠し、離れると。

「こんな風に、あなたはなりたいの?」

目の前で驚くべき光景が展開された。

硬いリンゴのような膨らみが見る見る大きくなり、
一定の大きさで止まると今度は同じ速度でしぼんでゆき・・・。

あっという間に、美しい彼女には不釣合いな胸になってしまった。

「所詮、外見なんてこんなもの」

サッと手を振り再び隠して戻すと、そこには最初に見たままの小ぶりな胸。

でもそれは彼女の細い肢体には、美しく釣り合いが取れているように思えた。

「我は月の女神であり乙女の守護者でもある者。
本来なら、ここに辿り着いた娘はさっさと願いを叶えてやって
我が眷属に加えてしまうのですが」

鮮やかに笑った顔は、無邪気な少年のようにも見えた。

「でも、あなたは私の支配下には入りはしないでしょう。
鋼のように強くしなやかなのに、そのうちに秘めている
想いからはあえて眼をそむけているのは無自覚からなのか・・・。
ああ、本当に・・・なんと可愛らしい娘」

するっと顎のラインを美しい指で撫ぜられる。

「無自覚って・・・?」

さっきから何度も言われているその言葉。

「己の欲には忠実であるのに、自身の内にある真の願いに気づかない心。
飛びきり聡い娘だろうに、原始の想いに無自覚な娘。
・・・気に入りました。チャンスをあげましょう」

そう言うと彼女はあたしの胸に手をかざし。

「さあ、望むが良い。 先ほどの願い、叶える事は簡単。
但し、代価を支払っていただきますが」

「代価・・・って?」

漠然と、嫌な予感がした。

「代価はその身が抱える奥底の願い。それを私に捧げれば」

そこまで言うと急に言葉を切り。

「要らぬ邪魔が入りましたね。今宵はこのまま去りましょう。
どうしても願いを叶えたくば、明日もう一度ここにいらっしゃい」

彼女は柳眉を顰めて、そのまま姿を消した。

まるで、月の光が雲に遮られるように、あっけなく。

同時にあたしを縛っていたものも消えて、急に全身の感覚が戻ってくる。

それまでは彼女の声以外聞こえてこなかったのに、今は虫の声がうるさいほど。

遠くから聞きなれた声が近づいてくる。ああ、そういう事か。

「おお〜い、リナぁ」

ガサガサと下草をかき分けながら近づいて来る人物は、
姿を見ずともすぐにわかる。

ガウリイだ。

「てっきり盗賊いぢめだと思ったんだが・・・。こんな所で何やってたんだ?」

くりっと首を捻りながらあたしに向き合う彼。

「何でもないわ。 さ、宿に・・・」

その時。

一陣の風が吹き。

朧に浮かんでいた月が真の姿を現す。

雲の切れ間から射した月光が、彼の長い髪を一際明るく輝かせ。

「ああ、帰ろう」

穏やかな笑みと共に差し出された手。

その手を、あたしは取らなかった。

「リナ?」

不思議そうにあたしを見つめる彼の瞳は、青ではなく青灰色。

「これが、あたしの本当の願いって事?」

「やはり、判るのですね」

微笑んだ人物は、フッと姿を揺らめかせると、すぐに先ほどの
白い貴人の姿に戻る。

「ええ、さすがにここまでお膳立てされりゃあね」

「では、答えを」

袖から取り出した扇で口元を隠しながら、促され。

「あたしの望みは・・・あいつを手に入れる事。
ずっと、一生そばに置いておく事だわ」

「半分正解・・・って所ですね」

コロコロと笑う彼女の前じゃ、あたしは赤子も同然ってか。

「そりゃね、この心は今開いたばかりだもの。
そしてあたし次第でもっと形を変えていくものだし。
だから、完全な答えじゃないけど及第点位つけて欲しいわね」

あたしも笑って、彼女を見上げた。

「さぁ、そろそろ帰ってあげなさい。あなたの想い人が不安に思っているでしょう。
もう、この近くまでいらっしゃっていますよ」

彼女は教師が生徒にするように、くしゃりとあたしの頭を撫でて
光で一本の道を示す。

「ありがとう。 じゃあ、行くわ」

サクサクと月光の道に一歩踏み出してから、結局名前を聞いてなかったなと気がついた。

慌てて振り返ったけど。

そこにはもう、誰の姿もなく。

風に吹かれ静かに佇む白い椅子だけが、草の海に浮かんでいた。