流れる風に髪をなぶらせて、時にはチョウチョなんぞを止まらせながら
のんびりと道を行く男が一人。

あたしはゆっくりと、はるか上空からその姿を眺める。

あっ、何止まってんのよ。
そんな所で道草食ってたら夜までに町に着かないわよ?

・・・なるほど、怪我したウサギがいたんだ。

手当てしてあげるの? お優しい事で。

彼は器用な手つきで薬を塗り包帯を巻いて、そっと草原に放してやる。
それからまた、のんびりした足取りで歩き出す。



・・・ねぇ、幸せ?



大好きな人。

もう、隣に立つ事はできないけれど。

あたしは、あんたの事が好きだったわ。

あの後あんたは随分と自分を責めてたけど、あたしはそんな事ちっとも望んじゃいなかった。
あんたはあんたのできる総てであたしを護ろうとしてくれた。

それだけで、もう充分。

あたしはあたしで最悪でもあんたにだけは生きていて欲しかったから、
だからちょっとばかり無茶しちゃったんだけど。

あの時あたしは、2人で生き残るつもりだったのよ?

まったく、自分自身への賭けに負けちゃうなんて人生最大の誤算だったわ。

・・・そう思って、クスッと笑った。

主だった魔族はしばらくこっちに手出しできない程度には弱体化させられたし、
あんたが生きてる間位は平和が続くはずよ?
まぁ、レッサーデーモンとか亜魔族までは保証できないけど。





ふわふわと抜けるような青空の中、『あたし』は流されていく。

下を歩く彼について行くように。

まるで紐か何かで引っ張ってもらってる気になるけど、実際はもう、
あたし達には何の繋がりもない筈。

いつまでこうやっていられるのかわかんないし、そろそろ行くべき場所に行かなくちゃ・・・。



名残を惜しんでもう一度地上を見る。

すると、急にあいつが道から逸れて草原を突っ走るのが見えた。






何?

何かあったの?






あたしも急いで彼を追い、着いた場所は。
何故こんな場所にあるのかと思う一軒の家。

慌てたように彼は扉を開けて中に駆け込んでいく。

今はここに住んでいるの? どうしてこんな辺鄙な場所に?

そのままあたしも追って中に入る。

バタン!と音のした方に移動するとそこには閉ざされた扉。

スッと手を当てるとそれは何の抵抗も無くすり抜ける事ができた。
物質を透過するのは変な感じだったけど、そんな事はどうでもいい。

部屋に忍び込んだあたしは、そこにある光景に驚いてしまったのだ。






「今日もいい天気だぞ? ほら、これ摘んできた」
ガウリイが窓辺に野の花を生けながら、話しかけている。

「さっきな、一瞬お前さんの気配を感じたんだ。 
いつもより随分弱かったから焦って帰ってきたけど
今は大丈夫そうで安心した。 
あとでまた医者が来てくれるから、診てもらおうな」

あたしの記憶の中にある、優しい微笑み。
そこに悲しみを混じらせたら今の彼の笑みになるんだろうか。

白いベッドの上に横たわる女性の髪を撫でながら、傍らに置かれた椅子に座り一人話しかける。
返答なんであるわけないのに、そんな事お構いなしで。



そうよ、返事なんてできるわけないじゃない。

あたしは、ここにいるんだから。



そう。

ベッドに寝かされていたのは、見間違えようもない。

随分と顔色が悪くてやせ細っていたけれど、それは間違いなくあたしの。
『リナ=インバースの身体』だった。



「なぁ、リナ。 ・・・もう、お前さんを追い立てる奴なんていないんだからな」
昏々と眠り続けるあたしの身体に語りかけるガウリイ。

諭すように、ゆっくり優しく話しかけてくれる。
答える事なんで出来ないのに。

「お前さんが頑張ったお蔭で魔族の方は何とかなったみたいだし、
人間同士の諍いはオレ達には元々関係ないしな。
もう、お前さんに無理やり『戦場に立て』なんて言う奴はいないし、
いたとしてもオレが追い返してやるから。
だから・・・帰って来いよ。 なぁ・・・リナ」

ぽつん、ぽつんと『身体』に語りかけるガウリイ。

「こんなになっちまってから随分経ってるし、そろそろ美味いもんでも食べたくないか?
ミルサーでもロベリア羊でもニャラニャラでも、リナの好きな物選んでいいからさ。
だから、そろそろ目を覚まさないか? オレ一人じゃ何もやる気が出ないんだ」

スルスルとガウリイの手は『抜け殻』の髪を撫でて梳いて。

「毎日生きる為だけに食う飯はまずいぞ? 
砂を噛んでるみたいで飲み込むのも一苦労だし、
あんなのは・・・ただの餌だな。
 リナと食う飯はゆったり味わってって雰囲気じゃなかったけど
それでもすごく美味くてさ。楽しくてなぁ・・・」



語りながら、ガウリイの頭が段々と下がって、長い髪が肩からザラリと流れ落ちる。



「もう一度・・・お前さんと飯、食いたい。
リナが笑って傍にいてくれるんなら、もう他には何もいらん。
盗賊いぢめだって付き合うし、図書館でも寝ないから。
なぁ・・・いい加減目を覚ましてくれよ。
こんなに近くに気配があるってのに、まだ帰ってこないつもりかよ!?」

ばっ!! と顔を上げたガウリイの青い瞳は、真っ直ぐ『あたし』の方を向いていた。

「魔法医が言うにはお前さんの身体は冬眠状態に近いんだと。
だから普通は半年も寝てりゃとっくに死んじまってる筈が、無理やりにでも
胃に栄養を流し込んで身体を維持できている。
お前さんの精神さえ帰ってくればすぐに目覚めるだろうって!!
リナ、 頼むから自分の身体に戻って来いよ!!」



立ち上がり、中空に手を伸ばし。



彼の腕は、違える事なく見えない筈の『あたし』を抱き締めた。
驚く『あたし』をゆっくりと、自分の方へと引き寄せる。

さっき木の扉をすり抜けた『心』は、ガウリイに捉えられたまま、
すり抜ける事なく彼の胸に抱き寄せられた。

「見えなくたって、判るんだ。 リナはここにいるって、な。
でもやっぱりオレは、ちゃんと生身のお前さんに触れたり笑って話したりしたいんだ」

ギュッと抱き締められると微かな、だが確かに圧迫感を感じる。

そしてそのまま。

有無を言わさず『あたし』は「あたし」の身体に押し込まれたのだった。







クラクラする頭を何とか動かして、ゆっくりと瞼を押し上げる。

たったこれだけの動作でどうしてこうもしんどいのか。

水晶体に差し込む光が眩しい。

身体が重い。

てんでばらばらに流れまくってる髪の毛がくすぐったい。

最初に耳が捉えた音は「すまん」だった。

その後力の入らないあたしを抱き締めながら、これでもかと言うほど
言い訳だの恨み言だの喜びだのをたくさん聞かせてくれたけど。

残念ながら半年もの間使ってなかったあたしの声帯は、思うようには動いてくれず
ただ「うん」としか言えなかった。










「リナぁ、これはどこにしまうんだ?」
リビングから聞こえるガウリイの声。

あたしが自分の身体に戻ってから、既に半年が経過していた。

あの時ずっと寝たきりの生活を送っていた所為である程度動けるようになるまで
随分と時間がかかってしまったが、この短期間で体力を取り戻せたのは
二人三脚で取り組んだ、地道なリハビリの成果だろう。

あたしはこの小屋でゆったりとした時間を過ごしながら準備を進めていた。

もちろん準備とは「旅」に出る為のもの。






いつまでもいつまでも、ガウリイと二人ここで過ごす。

それは、とても魅惑的で甘い夢。

ここは最寄の街からもずいぶんと離れていたが、その分昔のように
余計な騒動に巻き込まれる事もなく
ひっそりと2人で穏やかな暮らしをするにはもってこいの場所だった。

生活費はあたしが今まで貯めこんでいたヘソクリを小出しにすれば
一生働かなくても良い位の蓄えがあるから、問題ない。

でも。

それは、あたしらしさを捨て、そしてガウリイらしさを捨てて生きる選択でもあった。

ううん、実際ガウリイがどう思っているのか判んないけど。

まるでぬるま湯に浸かって生きるような人生はあたしらしくない、
しばらく考えて、そう思ったから。

だからまた、あたし達は歩き出すんだ。

ここに至るまで、いろんな事があったけれど。








「リナ・・・美味いか?」

「ええ、まさかガウリイに料理の才能があったとはね〜」

熱々のスープを慎重に。
一匙掬っては少し冷まして、あたしの口に運ぶ。

長い間眠っていた身体は、急には固形物を受け付けられない。
こうやって消化の良いものを無理のない程度に、かつ頻繁に食べる事。

それが、回復への第一歩だった。

徐々に食事を固形物に変えていき、自らの力で食物を噛み砕き飲み下す。

そうして身体の内側を目覚めさせるのと並行して、寝たきりの生活で
すっかり萎えてしまった身体の筋肉を取り戻す為のリハビリも進めていった。

最初はガウリイに足をゆっくりと擦ってもらったり、
徐々に歩くような動きで動かしてもらって。

眠っていた間、まったく使わなかった所為ですっかり筋肉が落ち、
鉛のように重たかった足を、自分の意志で動かせるようになるまで一ヶ月。

そこから、よろめきながらも自力で立ち上がれるようになるまで、二ヶ月かかった。

壁に手を付き伝い歩き、ゆっくりなら自力で移動し。

少しだけなら走れるように。

まるで赤子の状態から急速に成長するように、あたしは自分自身を目覚めさせていく。



時には思い通りに行かなくてガウリイに八つ当たりしてしまったり
呪文を使ってリハビリをサボっちゃった日もあったけど、そんな時、ガウリイは
ただただ穏やかな目で見守ってくれていた。

一度、聞いた事があった。

「あんたはどうして、いつも笑ってられるのよ」って。



あまりの自由の利かなさに焦れて、理不尽な八つ当たりを繰り返していた頃だ。



「なんで怒らないのよ!! あんたが悪いんじゃないのに!!
あたしが勝手にかんしゃく起こしてるだけなのに、どうしてそんな風に
ヘラヘラ笑ってられるのよっ!!」

勝手に自力で部屋を出ようとして、ハデにすっ転んだのだ。

思うように動かない身体。

枯れ木のようにやせ細った足は、一歩踏み出すごとに痛みが走るような有様で
こうなる前は当たり前にできていた事ができない自分に、たまらなく苛立っていた。

手近にあったカーテンを思いっきり引きちぎり、花瓶を落っことし水をぶちまけて。

慌ててやってきたガウリイにも花瓶の破片を投げつけて、
腕に傷まで負わせたというのに。

なのに、ガウリイは一言もあたしを咎める事をしないで
「あっちで茶でも飲まないか?」って、
あたしをリビングまで抱いて運ぶと、甘いお茶とクッキーを出してくれた。

それでもふてくされたままのあたしの頭を一撫でして、
手際よく散らかったものの後始末をしてきてくれて。

自分の傷よりもあたしを優先しようとするガウリイに
「どうして怒らないのよ!!」って突っかかったあたしに
彼は笑ってこう言ったのだ。

「オレは、リナが傍にいてくれるだけで嬉しいから。
そうやって、怒ったり笑ったりするリナがいてくれて、本当に幸せなんだ」って。

「ガウリイは、こんな不甲斐無いあたしでもいいの?」

「ん? お前さん、この先ずっとこのままで居る気ないんだろ?」

「当たり前じゃない!! こんな所でいつまでも燻ってるなんて真っ平よ!!
ここじゃ美味しいもの食べたり盗賊いびってお宝ゲットもできないし
魔道の研究をするにも道具も資金も魔道書も、何もかもがなさ過ぎるわよ!!」

思いっきり溜め込んでいた不満をぶちまけたら。

「なら、いいじゃないか」
笑ってまた、あたしの頭をグリグリと撫でる大きな手。

「ま、長い事寝てたからな、お前さんは。 いいかげんここでの生活に
飽きが来てるのは判ってた。
あとは外に出て行こうって気があるかどうかだったんだが、
その様子だともう大丈夫だよな」



そろそろ外の空気を吸わないか?




この一言が、再びの始まりになったんだ。







身支度は済ませた、装備も完璧。
路銀は・・・また、稼げばいい。

マントを羽織り、グローブを装着。
久しぶりにバンダナを巻いた。

隣には、懐かしくも見慣れた姿の相棒がいて。





「じゃあ、いくか!」

「いきましょ!!」





しっかりと手を取り合いながら。
あたし達は再び、世界と関わっていく。