ねぇ。あなたは闇を知っている?

そう、それよ。洞窟の中とか、明かりをつけないで閉め切った部屋なんかもそう。

一番手軽なのは目を瞑る事だけど。

そこに広がるのは真っ暗な世界じゃない事を、あなた知ってる?



ほら、嘘だと思うなら試してごらんなさいよ。

なるべく夜。眠る直前なんかがベストなんだけど、別に今でも構わないわ。

やり方は簡単。ただ両目を閉じるだけ。



目を閉じても、視界は真っ暗にはならないでしょ?

ちゃんと感じる?薄い目蓋を透過して届く光を。

薄暗い赤に見えるのは、目蓋を流れる血液のせい。

じゃあその上から手の平で目全体を覆ってみて。

今度こそ真っ暗・・・には、意外とならないのよ。

こんな風に光を遮っても、完全に何も見えなくなるわけじゃない。

黒い世界の中に、何かの形が薄墨色や白い線で浮かび上がってるのが分かる?

大抵は直前に見たものの輪郭だったり、形の定まらないフラッシュの連続。



じゃあ、次の段階へ行くわね?



あなたが見たいもの。

んー、特に指定はしないからそのまま頭の中で形を思い出してみて。

見えた?

・・・見えないって、そりゃあいきなり複雑な造形を写すのは簡単じゃないわ。

これはね、魔道士協会で比較的初期に習う精神集中法。

アクア・クリエイトやライティングみたいに混沌の呪文を丸暗記するだけで
発動するようなのには必要ないけど・・・そうね、身近な所だとレビテーションとか。

難しく考えなきゃ、実は誰にでもできるんだけど。よく言うでしょ?
『目を閉じて姿を思い浮かべた』とかなんとか。

『閉ざした視界』っていうキャンバスの中に像を描くのがこれ。

正直頭の中でイメージを思い描いてしているのか、それとも目の裏側に焼き付けた
絵を見ているのかは曖昧なんだけどね。

とにかく、真の常闇ってものは、そうそこいらに転がっているものじゃないって言いたかったの。

だからもしも暗い場所で一人になっちゃって怖くなったら。

目をゆっくりと閉じて、好きな人の顔でも思い浮かべればいいわ。

そうしたら、きっと暗がりなんて怖くなくなるから。



パタパタと軽い足音が遠ざかっていく。

階下へ足音が降りたのを確認して、あたしは勢い良くベッドに身を投げ出した。

ギュッと強く、両腕を顔に押し当てて数回。

ゆっくりと深呼吸を繰り返していると、だんだん気持ちが落ち着いてくる。

闇はあたしにとって馴染みの深いものだ。

月明かりのない夜は、獲物を狩りだす格好の隠れ蓑であり。

混沌の言語を紡ぎ印を結んで生み出す黒い力は、闇を司る魔に起因する。

けれど、そんなあたしでも。

真実の『闇』を見たのは、たった一度。



あの日。

絶望と微かな希望の狭間で。

無心に呪文を唱えたあたしの、手の中に生まれ出でしもの。

あたしの僅かばかりの魂を触媒に、この世界に顕現した闇の母の胎内。

「あんたは、そんなもの知らなくていいのよ」誰に言うでもなく、ただ、呟いてみる。

人の知っているべき闇は、疲れた身体を優しい眠りに誘うものだったり、
先の見えない不安や恐怖を判り易い形で教えるものでなくてはならないからだ。

どちらにせよ闇も夜も、人の営みとは切っても切り離せないもの。

光や朝との対極、どちらが欠けても存在しえぬもの。

だから、どちらもむやみやたらに恐れる必要などないのだ。

もしも魔力を持ちえぬ人々が、一条の光も届かぬ闇を見出すとしたら。

それは『絶望』の奥底にしかありえまい。

「あたしは。もう、二度と・・・」

誰にも誓わぬ決意を、ただ、夜の冷気に溶け込ませた。








真実の闇を見た事があるかだって?

そんなもん聞いてどうするんだ? ああ、一人で寝るのが怖いのか。

なら、そんなものは何も怖くないってオレが太鼓判を押してやるよ。

お前さんみたいなちびっ子がそんな小難しい事を考えなくてもいいんだぞ?

夜の暗さは「もう眠る時間だ」って、みんなに教える為にあるんだし、
夜目が利かない奴の為には、夜空に月が浮かんだり星が瞬いたりして
ちゃんと道行きを照らしてくれるんだ。

え? 

曇りの日や雨の日はどうするんだって?

そんな時はな。

いいか? 坊主。

手近な場所に避難して、じっとしたまま明るくなるまでやり過ごすんだ。

明けない夜はないっていうだろ?だから、そんなに心配するなって、な?



子供は頷くと、一目散に親元へと駆けて行った。



すっかり子供の姿が見えなくなってから。

ガウリイは、かぶっていた笑顔の仮面を降ろした。

長く垂れ下がった髪の下から現れたのは、痛そうにしかめられた眉。

闇は、彼にとってあまりに身近すぎた。

生まれてこの方、彼は人の心に巣食う『悪意』という名の闇に晒され続けてきたのだから。

諍いの元凶である光の剣。その正体もまた、異世界の魔王の武器だったというではないか。

ならば、そんなものを携え命を繋ぎ生きてきた己はまさに、
闇と共に歩んできたとも言えるだろう。

生きる為。

ただ、生き延びる為に。

金で雇われ命じられるままに、夜陰に紛れて敵方に襲撃をかける。

敵の喉笛を掻き斬り背後から斬りつけて、他人の命をどれほどかき消したことか。

隣室の彼女に話した事はないが。出会う前、傭兵を生業としていた以上
簡単に分かる事だし、彼女とて白い手はしていないけれど。

ふとした偶然で、彼女と出会ってから。

長い間、ヒタリと纏わりついていた闇が、少しずつ薄れていくのを感じたのは本当の事。

護りたい。

心からそう思えた娘は、自分ごときに庇護されるだけの存在ではなかったけれど。

いくつもの修羅場を共に越えて、無条件に背中を預けられると信じた頃には。

闇は、すっかりオレの側から退いていた。



真実の闇。

友が飲まれた闇。それは絶望。

敵が喰われた闇。それは怨嗟。

人々を殺戮し蹂躙した闇。それは無邪気な願いの産物。

そして彼女が生み出した闇。・・・それこそは真実の闇、そのもの。

彼女がけして語ろうとしない当時の記憶は。実はオレの内にも在って。

あの存在が総ての存在の母だとしても。

もう二度と。二度とあいつがアレを呼び出さずに済むように。

オレは、もっと強くありたいと願う。







コンコン。

軽いノックの音が、あたしを仮初めの闇から目覚めさせる。

「なに?」

誰とは聞かない。

「なぁ、ちょっと散歩に行かないか?」

聞き慣れた声は、背の高い相棒のもの。

「散歩って、軽い運動込みのやつ?」

そんな事はないだろうけど、聞いてしまうのは乙女心って奴だ。

「あのなぁ。普通盗賊いぢめを軽い運動とは言わんぞ?」

案の定、呆れた声が返ってきて。

続いてドアが開いて苦笑顔の彼が姿を見せる。

「どういう風の吹き回しなんだか」

一応簡単な装備だけ身につけて。

肩を並べ、涼やかな風の渡る夜の中に踏み出した。








傍らで。

心地良さげに笑んでいる人は闇を恐れるだろうか。

いや、彼は。

そして彼女はもう、知っている。

闇と光の存在を認め合ってこそ、人は人たりえるのだと。

夜空に輝く星のように、昼の光から生まれる陰りのように。



木漏れ日のような穏やかさで微笑む彼に。

真夏の太陽のように激しく輝く彼女に。

今、この時は。

静かで穏やかなこの、夜の闇を捧げよう。

二人で肩を並べ、笑いあいながら。

一時の安らぎに満ちたこの夜を、分かち合い謳おう。