くたびれた服をむしるようにして脱ぎ散らかすと、
男はまっすぐ浴室に向かい、冷水のシャワーを浴び出した。

唇が紫色になっても止めようとせず、まるで修行僧の水垢離のように
項垂れ瞳を閉じて刺すような温度の只中に立ち尽くしている。


・・・こんなはずじゃなかった。

先ほど彼を射抜いた唯一つの言葉だけが、グルグルと脳内を駆け巡り
男を絶望の淵に追い詰めるのだ。


どの位、そうしていたのだろうか。

ガチャ!!

玄関口から、乱暴な開閉音が数度。

ダンダンダン!!

力強く、荒々しい足音がフローリングを踏みつけ、勢い良く浴室に近づいて来る。

「このっ、バカ男っ!!」

自分が濡れる事など一切構わず、怒声と同時に扉を開き男を突き飛ばしカランを捻ったのは。

「・・・・・・」

「・・・あんたね、なんかあたしに言う事あるんじゃないの?」


ずぶ濡れの金髪を鷲掴みに引っ張り挙げ、そのまま男を浴槽に入るよう促して、
娘は壁のコントロールパネルを操作して、彼を湯に沈めにかかった。


ぴちょーん。

お互い無言で、片や湯の中片や着衣のまま椅子に腰を掛ける。

向き合いもせず、しかし意識は痛いほど相手に向けられたまま。

ぽーん。

『お風呂が沸きました』
間抜けな合成音が響いて、重苦しい沈黙を破った。

最初に口を開いたのは、腕とスカートを濡らしてしまった娘の方。

「温まったら、出てらっしゃいよ。 その位なら待ってたげる」

不快そうに濡れた上着に手をかけながら、男の方を見ないまま、さっさと浴室を出て行ってしまった。

後に残された男は、茫然と閉じた扉を見つめていた。

どう説明すればいいのだろう。

彼女に真実をありのままに告げれば。

しかし、果たしてそれで納得してくれるだろうか。

彼女の嫌う手段で生きてきた自分を、過去を、許してくれるだろうか。

悲観的な未来を想うと、恐ろしくてしょうがなく。

真正面から彼女に向き合うための一歩を踏み出すのが、とてつもなく怖い。



湯に浸っていた両手を揚げ、拳を固めて思い切り振り下ろす。

バシャッ!!

飛沫があがり、重力に従い再び波立つ水面に同化する。

「嘘を」

嘘をつく事の方が、彼女に対する裏切り行為だ。

「真実を」

真実を告げる事、それが総て良い結果をもたらすとは限らない。



しかし。

しかし、これ以上。

これ以上、どんな些細な事であっても、彼女に顔向けのできない行いはしたくない。

腹を括って、対面する為に立ち上がり・・・男は、湯あたりを起こしてぶっ倒れた。

その際、煩悩を祓う除夜の鐘の如く重々しい『ゴーン』という音が聞こえたとか聞こえなかったとか。

真相は、娘しか与り知らぬ事だが。



その後、二人が肩を並べて歩く姿があちらこちらで目撃されている事から、
関係が修復されたらしいと周囲は安堵に胸を撫で下ろし。

以前にも増して彼女の尻に敷かれるようになった男は、それでも幸せそうに笑って、常に彼女の傍にいる。



バレンタイン? 二つ目。
チョコも甘さも何もない小話です。