眠い目をここすりベッドから降りたあたしが最初にしたのは、
短剣を引き寄せ鞘を取り払うことだった。

項の辺りがチリチリと奇妙に疼く。

一瞬ごとに疼きは強くなっていき、あたしは身を屈め
胸の前で短剣を構えて臨戦態勢を取る。

・・・魔族か。
それとも、昨日倒した野盗の残党か。

ぢりりりりりりりりりりりりりりり。

頭の片隅でがなり続ける警戒音。

しんと静まり返った室内。

外からは時折風の過ぎ行く音だけが鳴り。

他は、まったくの無音。

枝葉の擦れる音もなければ虫の声も聞こえず獣の息遣いも何もない。

この、深くて暗い森の、放棄された小屋の中。

あたしはただ一人、どこから来るとも知れない敵と対峙している。



じわり。



それは、粗末なつくりの木戸の裾から湧き出した。

赤黒い粘液が僅かな隙間から滲み出して侵食を開始する。

ぷちぶちと聞き苦しい発泡音を奏でながら、泥で汚れた床ごと
己の色に染め上げようと広がるそれは、
呼吸を止めたくなるような異臭を放ちながら領土を広げていく。



これじゃない。

しかし、あたしの直感はそう告げていた。

あくまでこれは囮、敵は。

敵は、したたかに悪意を敵意を殺意を隠してあたしの隙をうかがっているはず。



ビッ!!

刹那、あたしは真横に飛んでいた。

そうと認識するよりも早くに、天井の明かり取りから放たれた
悪意から身をかわしていた。

あたしの立っていた場所には、一振りの細剣が震えながら突き刺さっていて。

それが投下された天井窓から、魔鳥の羽のような漆黒が
隙間からチラリと覗いて、すぐに消えた。

あっけなく去り行く気配。

どうやら今夜の襲撃は諦めてくれたらしい。



薄れていく感覚を宿す項に手を押し当てて、ジッと目を閉じ再び気配を探ると
危険な気配を放つソレは、潔くも本当に去ったらしい。

・・・戦闘にならないに越したこと、ないもの。

ヂンッ。

再び短刀に鞘を被せ、呪文で出した浄水で赤黒いソレを外まで押し流し、
整え終えた寝具の上で、結界呪文を再度唱えて2重3重の結界を張った。

目には目を、歯には歯を。

一筋縄ではいかない敵には同等の敵を。

一人で何処まで踏ん張れるだろうか。

敵の全容が見えない今、予測する術は皆無だがそれもあと2日の辛抱だ。

あと2日もすれば、隣村まで出向いた彼が帰ってくるから。



言い直せば、あたしの命を狙う者達にとって、この状況こそまさに
千載一遇のチャンスだから。

薄まったものの消えきらない殺意の塊に苦笑を浮かべて、
両腕で短剣を抱いたまま目を閉じる。

喰われない限り大丈夫だ、そう言って笑った人の顔はどんなだったろう。

死地にありながらも彼の姿を思い浮かべるだけで
こんなにもリラックスできる自分自身に
我ながら呆れもするが、今後こんな場面はもっと増えるに違いない。

屍山血河の真っ只中に浮かぶ標。
それが彼だから。

常闇に一条差しこむ天国の階段のような、金色の生ける道標が
心配しないように、あたしはあたしの敵と戦い続けようと思う。

北の大地に辿り着くまで。

それが、彼とあたしのかわした約束。

あたしの中の赤を目覚めさせようとする輩を打ち倒して進むこと。

氷壁に封じられた片割れと共に彼に討ち果たされること。

人の守護者たる彼。

「今のお前さんは人だろうが! 奴を倒す前にお前の中からそいつを
引きずり出した瞬間を狙って同時に討てば大丈夫だ」
なんて、優しい言葉であたしを気遣ってくれるけど。

それがほぼ不可能な事をあたしが一番良く知っている。

僅かな可能性にかけるとしたら、それはあたしの存続と世界の存亡を
天秤にかける非常に危険な手をつかうしかないのに。



今ごろ彼は何をしているだろうか。

不安に揺れる心もまた、内なる赤を活性化させてしまうから。
「大丈夫だ」と笑う彼の言葉を抱いて、あたしはギュッと瞳を閉じた。