ポテポテと薄暗い廊下を歩きながら、あたしは一人で
ある場所に向かっていた。

時間は深夜、辺りはシンと静まり返っている。

既に他の宿泊客達は自室で安らかな寝息を立てている頃だろう。
それを期待して、わざわざこんな時間まであたしは我慢をしていたのだ。

こんな時間に行く先とは、離れにある露天風呂。

この宿は外と内に二つの風呂があるのが売りで、特に露天は温泉成分が濃いらしく
繰り返し入浴すると驚くほどお肌がツルツルになるのだとか。

夕食前、さっさとお風呂を済ませてきたガウリイが
「ここの湯は本当にいい感じだったぞ〜」って太鼓判を押す位。
 
この時間なら、もう他の客はいないだろう。

そしたら、気兼ねする事もなくゆっくりと楽しめるだろうし。






ガララララ・・・。

宿の別館渡り廊下からいったん敷地外に出て、さらに歩く事しばし。

ようやく露天風呂の入口にたどり着く頃には、あたしの髪も身体も
夜気に晒されすっかりと冷えてしまっていた。

突っ掛けを引っ掛けただけの素足の先なんて、既に感覚がない。

何せ春と言ってもまだ初春、夜はまだまだ肌寒い。

背筋に這い上がってくる寒気から一刻も早く逃れようと、急いで
脱衣所に飛び込み
ピシャンと戸を閉めて、そのまま鍵を掛けてしまう。

こうすればここはあたしだけの貸切状態♪
誰かが来たとしても、鍵が掛かってりゃ諦めるだろうし。






いそいそと脱衣棚の前に移動して。

誰にも気兼ねする事なくゆったりとお肌を磨けそうだわと、
期待に胸を膨らませつつ、着ていた浴衣に手をかけた時だった。

突然、『ガキッ!!』と異音を立て、閉めたはずの戸が開いた!!

「リナ・・・お前、一人でどこに行ったのかと思ったら」

びっくりしてとっさに戦闘態勢を取ったあたしの前に現れたのは・・・。

なぜか思いっきり不機嫌そうなガウリイ。

「なんだ、ガウリイか・・・」

とりあえず、現れたのが敵でなかった事に安堵して
唱えていた呪文をキャンセルし、脱ぎかけていた浴衣の合わせを直す。

よし、見られてないわね、って。

「何よ、一人でお風呂に来ちゃいけないっての?」

あたしは真っ向からガウリイに抗議した。

黙って盗賊いぢめに行ってたわけでもないのに、どうしてあんたが不機嫌になんのよ。
この状況で不機嫌になるのは普通、着替えを覗かれそうになったあたしの方でしょ!?

「・・・リナ。お前、もう忘れてるのか?」

ボソリと呟かれた言葉の影で、カチャリ、と小さな金属音。

すこぶる耳の良いあたしだから聞こえたんだと思うけど、その小さな音が
なぜかあたしの背中にゾワリとした感覚を生じさせた。

「ガウリイ・・・?」

何かが、おかしい。

忘れてるって、脳みそヨーグルトなあんたじゃあるまいに
あたしが何を忘れてるって言うのよ。

スッと一歩、あたしに向かって踏み出すガウリイと。

ジリ、と、一歩後じさるあたし。

目の前にいるのはたしかにガウリイなのに、どうしてか怖い・・・。

ふと、ガウリイの視線があたしを貫いた瞬間。

咄嗟にあたしは、自分の身体を護る様に抱き締めていた。

「リナ。 一昨日の夜、オレと約束したよな? 一人で勝手に出かけないって。
もし約束を破った時はそれ相応の対応をさせてもらうって、言ったよな」

あたしを見つめるガウリイの顔は、眼差しは。

いつものくらげでも、保護者でも相棒のものですらなかった。

まるで、獲物を見つけて舌なめずりをしている狼のように、
少しだけ細められた青い瞳がこちらを捉えていて。

男臭く不敵に歪んだ口元は、どこか楽しげ。

まるで千載一遇のチャンスを見つけたとでも言うかのように。

ガウリイは出入り口を背にして立っているだけなのに、
普段よりも一回り大きく見えるのはどうしてだろう。

これは威圧感? それとも圧迫感か。

さっきまで寒さを感じるほど広いと思っていた脱衣所内が、
ガウリイの出現により、息苦しいほど狭い空間に変わる。

心臓がドクドクと早鐘のスピードで走り出す。

まずい。

何がどうまずいのかなんて判らないけど、あたしの勘が『ここにいてはいけない』と
頭の中で警鐘を鳴らしている。

第一、約束って言ったってあたしはそんなもの了承した覚えないんだけど!

賢いあたしがおぼえてもいない約束なんて、最初からなかったって事よ。
うん、そうよそうよ、あたしが決めた、今決めた。

「おい」

「ぎゃあっ!!」

瞬きしたその一瞬に、ガウリイがあたしの腰を攫っていた。

逃げなきゃ。

逃げなきゃ!

逃げなきゃやばい!!

「あ、あんたなんのつも・・・」

「リナ、身体が冷え切っちまってるぞ? ほれ、さっさと脱いで風呂に入る」

視線とは裏腹な、ぶっきらぼうな声が頭の上から響き、
同時に背後からシュルっと帯を解かれる音が!

こら待てちょっと待て一体何の権限があってあたしを脱がそうっての!?

それ以前にこいつ、何でこんなに強引なのよ!!

制止する間も与えられずに、無情にも『はらんっ』と浴衣の合わせが緩む。

慌てて掻き合わせようとしたあたしの両手はガウリイの手に拘束され。

超高速で唱えていた呪文は強制キャンセル。

ガウリイの所為で!!

『何考えてんのよ!こぉの色ボケ獣変態くらげ〜っ!!』

塞がれ続けている所為で声に出せず喉の奥で留まっている悪罵を知らず、
ガウリイはあたしを軽々と抱き上げてそのまま湯船へと向かって。

全身に力を込めたあたしの抗いはまったく効を成さないまま、鼻に香る
お湯の匂いと、もうもうと湯気が立ち込める場所へと運ばれてしまう。

ちゃぷ。

『うそっ!?』

ざぶ。

『待ってよっ!!』

ざざざざざ・・・。

「・・・んっ、何考えてんのよっ!!」

ようやく自由を取り戻した口が最初に発したのは非難。

「ん? リナは全部脱がして欲しかったのか?」

「脱ぐも脱がないも、あんたがあたしを浸けちゃったんでしょうが!!」

腰まで浸かった湯の中に、浴衣のまま連れ込まれたあたし。
こんな狼藉働かれて怒らない奴がいるわけない!!

しかし受けた側は余裕しゃくしゃく、目の奥の潜む獣はそのままあたしを、
あたしの全部を射止めて止まず。返事の代わりに再びあたしの唇を奪った。

ギュッと押し付けられた、熱くて柔らかな唇から侵入してくるものがある。

隙間からペロリとあたしの唇を舐め、合わせをなぞり。

入れてくれと言わんばかりにツンツン突付いてくるのは、きっとガウリイの・・・。

同時進行であたしの背中をなぞるガウリイの手の感触。

息すら堪えて抵抗を試みるも、結局不発に終わる。

するりと脇から伸びた手が、あたしの胸元にかかったのだ。

驚いた拍子に緩んでしまった口内に侵入を果たしたガウリイの舌が、
あたしの舌も悲鳴も罵声をも絡めとり、吸い上げてしまって。

もはや脱出の余地はまったくなくなってしまった。

「リナ・・・ほら、思い出せよ・・・一昨日の夜の事・・・」

時折、出て行っては睦むように囁かれる謎の言葉。

思い出せって、なに?

ああ、やだ・・・流されちゃう。

こんな、こんな風に突然ガウリイとキスしてるなんて信じられない。

『カリ』と下唇を甘噛みされた途端、ビリリと全身に走る電流のようなものは?

すっかり拘束の腕からは力が抜けて、あたしを抱き支えているだけなのに
逃げられないのはどうして?

どうしてあたしはガウリイに縋っているの?






酸素不足でぼうっとなってきた頭の隅に、突然甦った記憶。

あの日、あたしは久しぶりの盗賊いぢめに出かけて。
ヘマをして捕まってしまったんだ。

それから、薬をかがされて・・・気がついたらガウリイの腕の中で。

あの時、ガウリイはとても怒ってた。

心配したんだぞって、もう少しでお前は・・・って、怒っていた。

お前を誰かに奪われる位なら、オレが一生・・・って。

頭にかかる靄を振り払おうとしても、ぜんぜんダメで、それでも
なんとか「
・・・ごめん」ってだけ言えたっけ。

そしたら、そしたら。

「いいか? 次はない。今度もし一人で勝手に出かけたら・・・
その時は、もう我慢しない。何をしても判らせる。
オレがどんなに心配したか、どんなにお前を想っているかを。
どれだけお前に焦がれているかを、身を持って思い知らせてやる」って、
無理やりキスしてきたんだよね・・・。

ごめん。

今の今まで忘れてた。

あんなに怖いガウリイを見た事がなかったから。

あんなに切羽詰った眼差しは、初めてだったから。

あたしを喉から手が出るほど渇望していると、無言で語る青が怖かったから。

だから、忘れた。

何があったのかも、怖いガウリイも。

忘れたかったから、忘れようとして、忘れてた。

・・・思い出しちゃったじゃない。

蕩けるほどに熱くて恐くて艶めかしい声色で
「一生、鎖に繋いででも逃がしてやらん」って言った事を。







それからどうなったかなんて、口が裂けても言えないけれど。

あたしが一人で盗賊いぢめに出かける事はなくなった、とだけ言っておく。