こんなの、あたしらしくない。

鏡を前に自嘲しながら、丁寧に髪を梳き甘い香りの香油を薄く馴染ませる。
唇には指先で掬った蜂蜜を一刷き。


素肌に纏うは、いつもの着馴れたミルク色の貫頭衣・・・ではなく、
淡いグリーンのシフォンドレス。
ゆったりとした胸元から素肌を晒すのは恥ずかしいけれど、たった数時間だけの我慢だ。

細い金鎖のネックレスを身に着けた時点で、肌寒さに震えがくる。
さすがに秋も終盤、外に出る気がなくても寒いものは寒い。
そこらへんは予想済み、あらかじめ支度しておいた雪のように真っ白な
ストールを羽織り、胸の前でクロスさせて飾りリボンを括って留める。

髪をどうしようかと最後まで迷ったけれど、けっきょく束ねないままに決めた。
歩く事で柔らかく揺れる度、周囲に香油の匂いが漂うだろう。


ブーツをベッド脇に並べて置いて、支度しておいたハイヒールを箱から取り出す。
こちらもドレスと同じく淡いグリーン。
歩きにくさは説明するまでもなかろうが、これを履くのも今夜だけ。
どうしても歩き辛ければ、裸足になるか魔法を使えばいい。

「さて、と」
すべての支度を終えて、あたしは浅くベッドに腰掛け息を吐いた。

あとは迎えが来るのを待つだけ。

さてさて、お手並み拝見といきましょうか?

そわそわと、なんとなく両手を重ねて軽く擦り合わせる。

白く、肌理の細かい肌は日頃のお手入れの賜物だ。
今日は爪も甘い色に染めてある。
ちゃんとヤスリもかけたし、念入りにマッサージもした。
スンと鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、柑橘系の残り香がほんのりと。

どこまでも今夜のあたしはいつものあたしらしくないんだけど、
これはこれで結構楽しんでる部分もある。

今夜一晩だけは、可憐な淑女を演じなければならない。
面倒な事この上ないが、これも世にいう『約束事』というものなのだそうだ。

部屋の外から声が掛かり静かに扉が開くと、こざっぱりとした服に
着替えたガウリイが入ってきた。

彼はまっすぐあたしの元に歩み寄って来ると、恭しいしぐさで
片膝を折り頭を垂れて「随分待たせちまったな」と。
幾分緊張した様子で、あたしの両手を自らの両手で包みこんだ。

あたしは声を出さず、頷きだけで了と促し立ち上がろうと・・・いきなり腰を攫われ
部屋の外へと連れ出される。

予想外の行動に驚いて悲鳴が洩れそうになったのをかろうじて堪え、
抗議代わりの凍てつく視線をガウリイにぶつけてやるが反応はなし。
どーせ、歩き辛そうだとか思ってやったんだろうけど。

ガウリイの衣装は淡いブラウンのシャツと、漆黒のズボンに同色の皮靴。
極自然に歩を進めても足音がしないのがいかにもガウリイらしい。

これだけは仕方がない、二人分の体重を支えてキシキシ木床が歪む音だけが響き。
あたし達は無言のまま廊下を進む。

ここから先は、彼もまた沈黙を守らねばならない。
もちろんあたしも。

総てが恙無く、滞りなく終わる時刻まで。



幾重にも重なり合ったスカート布に埋もれてはいるが、
あたしは腰に一振りの短剣を帯刀している。

剣帯代わりに金糸を編みあげた鎖で腰から下げて、
鞘や鎖にも過剰な装飾を施しているから、まず気づく者はいない筈。

ガウリイはというと、彼もまた一振りの剣を帯びている。
彼の場合は隠す必要がないので、普段通り肩から剣帯をぶら下げ鞘を背負う形。

刃に触れるもの総てを手応え一つ感じさせることなく切断するという、
古の伝説にも登場する刃は、銘を斬妖剣という。

一際豪華な装飾を施された、重々しげな黄金の扉の前に着いた。

彼に手で合図して、ようやく足を地に着くことが許される。

顔を伏せ、視線は靴先に落としつつも利き手はそっと短剣の柄に添える。

この先、何が起ころうとも声を出してはならない。
堅く堅く、口を閉ざさなければ。

彼は大丈夫だろうか。

提示された条件は同じ筈。本当に状況を理解できているのか?

ちらりと、髪の隙間から彼の顔を窺ってみる。

あたしの不安が伝わったのか、躊躇のない所作で黄金製の取っ手に手をかけた男は
『わかっている』と視線で告げると、にっこり笑った。

さあ、宴が始まる。

一夜限りの無礼講。
人と、人ならざるものが混じり騒ぐ事のできる稀有な空間は、朝がくれば霧と消える運命。

ぎぃぃぃぃ。

かん高い、悲鳴のような軋みを上げて、扉が内へと押し開かれた。

既に始まっていたらしい宴の会場にはあらゆるモノ達が集っている。

今、この時この場所では。

人も魔も、神もエルフも関係ない。

死者も生者も、リビングデッドですらここではただの客人扱い。

ルールはたったのひとつだけ。

「何者も、時を刻んではならない」

夜明けを告げる一番鶏の如く、『存在』するモノの声は
一夜の夢を醒ましてしまうからだ。

人波の向こう側に見知った顔を見つけて声を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえ。
そんなあたしの背に手を添えて、ガウリイはゆっくりと歩を進める。

見つめる先には、目つきの悪い赤毛の男と。
クールな美貌を一段と引き立てる、艶やかな銀髪の女が寄り添い、
淡く儚く微笑んでいた。

それは、たった一夜限りの奇跡。

ハロウィンの夜の夢現。

纏う衣装はエルフの魔法で作られた特別製。

戦わぬのに、剣を帯びているのは無事に現世に戻るための守り刀。

言葉を交わす事はできなくても。
彼らに一目だけでも逢いたいと、願ってはいけないの?

たとえ世界の摂理を捻じ曲げてまでも。

望みを、願いを叶えようとする事は、
実に、まったくもってあたしらしいのかもしれない。








白み始めた空の光が、疲れた目に痛くて目を瞑った。

夢の終わりはあまりにもあっけなくて。

何があったのかと、思い出す端から記憶に霞がかかったように
夢の欠片が零れて消えていく気がする。

あの、惜別の時にも似た、薄紙一枚分ずれた空間の中。

あたし達は言葉を発せずとも、眼差しで、表情で、纏う雰囲気で
存分に彼らと語り合えた。

同時に、夜が明ければ二度と会う事はできぬだろう予感は別れ際、確信になった。
奇跡は、めったに起こりえないからこそ奇跡なんだ。

宴の終わり、彼女とは互いに微笑みながら握手を交わし。
あいつとは拳と拳を軽くぶつけ合った。

ガウリイは何やらこう・・・男同士通じるものがあったらしく、宴の途中に軽く
手合わせじみたマネもしていたけど。
あたしは静かに、ただ穏やかに。儚い宴を楽しんだ・・・。






黄金の扉はすでに消え、纏ったドレスはすっかりと色彩を失っていた。

輝く朝日に晒されて、掛けられていた魔法が解けた今
羽のように軽く柔らかだったドレスは、今や灰色に変色し、
カサカサと乾いた音を立てて裾の方からポロポロと
無残に崩れ灰燼に帰し始めている。

トン、と。

軽い感触が肩に置かれる。

振り返り、顔を上に向けると心配げなガウリイと視線がぶつかった。
バツが悪くて俯くと、朽ち逝く布の影から見えたボロボロの靴。

どうやら彼の代償は靴と剣帯だったらしい。

彼が体を動かしたのと同時にブツリと嫌な音を立てて、
剣を支えていた帯が切れ、大地に剣が突き刺さった。

一応鞘は無事のようだが切っ先の保証はどうだか。

同じくすっかり朽ち果てた靴は、彼が足を持ち上げた途端形を失い、
下から現れた形の良い足は朝日に照らされ、一際色白さが映えて見える。

「寒いだろ?」
すっかり裸足のガウリイに、労わる様に抱きしめられた。

包み込まれた腕の熱さに、聞こえる鼓動に。
鼻をくすぐる彼の匂いにぶわぁっと胸から溢れたのは、安堵だった。

ガウリイもきっと同じ。



彼は、どこにも行かない。
あたしも、どこにも行かない。

生きて、あたしの傍にいてくれる。
ずっと、あんたの傍にいるから。



抱き寄せられた逞しい胸に縋り顔を圧し付けると、
力強く伝わってくるのは休む事無く鳴り続ける生命の音だ。

うっとりと耳を傾けながら、もう一度目を閉じる。

ここでなら遠慮なく泣いてもいいんだって、もう知ってるから我慢なんてしない。
ツンと痛み出した鼻も、後から後から湧いて出る熱い水も全部。
あんたにだけは隠さないから。

今だけは、こうしていさせて。
顔を上げ、前を向いて明日を迎えるために。

声を上げて、思いきり泣いて、泣いて、泣き喚いた。

しゃっくりあげ、嗚咽を漏らすあたしの背中を擦る手は優しい。

彼はあたしみたいに泣いたりしない。
事実だけを受け止めて、心の中で静かに彼らを悼んでいる。

癒えぬ痛みを共有しながら、あたしたちは一個の生き物のように
寄り添い、温もりを与え合っていた。