この姿になってからというもの、俊敏さにかけては誰にも負けない自信がある。

人間よりも軽い身体、滑らかさと柔軟性に富んだ四肢。
絶妙なバランス感覚と、強靭な爪。
牙はまだ武器と言えるほど鋭くはないけど。
皮膚を切り裂くくらいなら、軽々やってのけられるのよ?



とたたたたたっ!!

長い尻尾をピンと立て。

身軽さを武器に、部屋の中を縦横無尽に駆け回る茶色い旋風。
軽い足音は時折途切れ、数瞬後には「とたっ」という着地音を響かせる。

「こらまて! いい加減観念しろって!!」
息を切らせてそれを追うのは、慌て顔の成人男性。

彼とて決して動きが鈍いわけではなく。
反射神経だって人並み外れて・・・外れ過ぎだと言われる程には優れている。

しかし、所詮は人。
野生の獣の俊敏さには敵わない。
ましてや、獣の内に人の知性が宿っているとなれば尚更。

「いい加減にっ、しろよ、リナっ!!」
荒い息を吐きながら、部屋の中央で怒鳴ったのは彼女の保護者であり
現状、飼い主として周囲に認識されている職業剣士なガウリイ=ガブリエフ。 

天井近くの壁を睨む姿は、普段の温厚さを忘れそうなド迫力。

しかし怒鳴られている当人・・・いや、当猫は。

ツンとそっぽを向いて、自重でたわむカーテンレールの上に伏せて待機中。

手を伸ばされれば即、逃げられるよう緊張は解かないままだ。



手には小さな陶製の壷を握り締めて、
しつこくしつこくあたしを追っかけてくるけどさ。
簡単に捕まってなんて、ぜ〜ったいにやらないんだから!

今のあたしは確かに猫だけど。
あくまで姿が猫に変じただけで、中身まで猫になっちゃいないんだってば!!
な〜にが「これからの時期には必要」よ!
あたし、そんなにばっちくなんかないんだからね!!

でっかい魔の手を華麗にかわし、手近なカーテンを一息に
駆け上って、カーテンレールの上に一時退避。
ここならガウリイの動きが良く判るもの。

背の高い彼より更に高い位置から室内を睥睨する。
ここからのエスケープルートは・・・と。

「判ってるんだろ? これしとけば楽になるって」

なによ、怒ってだめなら懐柔策?

「チ、チチチチ・・・」
空いていた手にはいつの間にやらチーズの欠片。
しかも舌を使った小鳥の鳴きまねまで。
ちょいちょいって、人差し指を軽く曲げてあたしを誘惑しようと企んでる。

・・・って、その、背中に隠した蚤避け薬の入れ物
どっかにやってから呼びなさいよ!!

あたしはお風呂大好きなんだし外にも殆ど出ないんだから、
そんなもん必要ないって何回言えばわかるのよ!!

「り〜な〜。 さっきから走り回って喉渇いたんじゃないか?
ほら、ミルクもあるぞ? ちゃんと温めておいたからうまいぞ?」

・・・今度は飲み物で攻めてきたか。

確かに喉は渇いてるのよ。
さっきからテーブルの上のミルクピッチャーから
ふんわかおいしそうな匂いが漂ってるの知ってるもん。

あたしのお腹がクルルと鳴った。

「・・・・ぅ、がうり。 そのおくすり、やーなの。
しない、って、やくそく、したら。おりるも


我ながら情けなくも舌っ足らずな物言いだこと。



猫化して、既に一週間。
そろそろここらが限界ラインかもしれない。

自由気ままな猫の生き方があまりにも心地良すぎて
ついつい元の姿に戻るのを先延ばしにしちゃってたけど。
これ以上猫化が進行してしまったら元のあたしに戻れなくなるかも。
しかし、その為には目下の彼と、その・・・しなくちゃいけないわけで。

「・・・わかった。だからこっちにこいよ」

諦め顔と溜息一つ。

薬壷をポケットにしまうと、ゆっくり両手を広げて近寄ってくる。

「ね、あたち、ノミなーて、なーよ?」

さて、どこに着地しようか。
つかまりやすそうな肩?
乗っかりやすそうな頭?
それとも、受け止めてくれるって信じて胸に飛び込む?

・・・・・・。

うん、決めた。

「ぅなぉん♪」
一声鳴いて、ゆっくりと跳躍体制を整える。

ここは足場が悪いから、しっかりと狙いを定めなきゃね。
なんてったって一撃必殺、彼の負担はこの場合考慮しない。

人だった時でも軽々あたしを担ぎ上げてた位だもん、
多少の事はだいじょぶじょぶじょぶv

軽く背中を丸めて、狙いを定めて・・・尻尾を揺らして。

ん〜っ、えいっ!!

ダッ!!

ひるるるっ〜

べしょっ!!

ちうっ。

するする、すとん。

・・・んじゃ、そういうことで。



硬直している彼の足元をかいくぐり、まずは自分の荷物の所へ。
んーと、とにかく服よね、服。

がさごそと荷物袋を探りながら、ぺロリと唇を舐めたら
淡い血の香りとガウリイの味がする。

「・・・・・・おい。 一体どうなってんだ」

低い声は背後から。

あ、やっと見つけた。あたしの服!!

「お前さん・・・もしかして、最初から元に戻る方法を知ってたのか?」

とにかく上着を着て、ズボンも・・・んっ。
下着とかは落ち着いてからでいっか、とにかく肌を隠さなきゃ。

「おまえなぁ・・・オレが、どんなに心配したと思ってんだ!」

グッと、肩に乗っかる大きな手。
ぐいぐいと痛みを感じる強さであたしを振り向かせようとするけれど。

あたしは更に身体を丸め、力の流れに逆らわず、
むしろ積極的に乗っかって。

くるんっ、ころん。

そのまま床に転がってみた、まるで甘える猫みたいに
驚き顔を見つめて口の端吊り上げ「ぅなぉん♪」と一声。

左手は顔の横に、右手はあごの斜め下。
軽く握った拳を曲げて、じゃれつく猫のポーズを披露。

「えっ? おいおい、まさか今度は中身が猫になったんじゃないだろうな!?」

慌ててあたしの横に跪き、顔を覗き込んでくる男の眉間に
『てし』と一発猫パンチをプレゼント。
とっさに目を閉じた彼の隙を突いて、バッと跳ね起き抱きついて。

「リ、リナ!?」

「な〜ぉ?」

慌てふためく彼のしっとりとした髪に頬擦りをしながら、
硬くて広い背中にがっちり両腕を回した。

やっぱり成功じゃないの、さっすがあたし♪
上機嫌さを表す尻尾は猫化が解けた所為で消えちゃってる。
けれど、あたしの内ではしっかり揺れてる、震えてるんだ。

「・・・さっきはキスしたら人間に戻ったんだよな。
なら、もう一回したら心も人間に戻るのか?」

あたしを怯えさせないように、逃がさないようにと大きな手が
あたしの髪を優しく撫でて、更に下がって背中に回って抱き寄せると。

「いい子だから、目ぇ閉じてろよ」と。






「・・・・・・・・・・・・ぷはっ」
重ねるだけのキスだって、長時間となれば息ができない。

酸素不足で朦朧とする頭が重くて、ぽてんと彼の肩を借りたら
「おっ、と」
凭れ掛かったあたしを軽々支えたガウリイは、
床に腰を落ち着けると、そのままあたしを胡坐の上に座らせて。

「まったく、お前さんは・・・」
嘆息混じりに痛い位の強さで髪をぐりぐりかき混ぜられる。



さて、どうしよう。
このまま寝入ったふりしてうやむやにしてしまおうか。

このまま朝までやり過ごしたら、きっとガウリイは何も言ってこないだろう。
あまり物事を突き詰めたりしない人だもん、
「元に戻ったんだな、めでたしめでたし」で、この件はお仕舞いになる。

そうしたらいつものあたし達に戻るんだわ。



・・・でも、本当にそれでいい?



甘やかされて、抱っこされて気持ちよかった。

一緒の毛布に包まっていると、身体以上に心がほわほわ温かくなった。

理由もなく触れ合う心地よさに、すっかりあたしは馴染み過ぎてしまってる。

これまで不定期に訪れていた寂しさの正体が、彼恋しさだと知った今、
あたしは、今までと同じように振舞えるの?



「・・・ぅあ。 あ、あのね・・・」

ええい、女は度胸よ!
欲しいものは自分の力で手に入れなくちゃ!!

でも、何て言ったら解ってもらえる?
仕事の交渉事なら、楽に有利に纏められるのに、
どうして言葉が出てこないの!?

まともに顔が見れなくなって、厚い胸板に押し付けた額。

布越しに届く鼓動は力強くて・・・少し、速い?

あたしの腕をやんわり外し、そのままあたしを抱き込む腕に
ぐいと背中を押されて囲われて、
頭の上から「甘えたいなら素直に来いよ」と。

落とされた囁きに呼応して、あたしの心臓も一気に跳ね上がる。

「リナ、甘えてくれよ。いいや、オレにお前さんを甘やかさせてくれないか?
一生一緒に生きていくのに、一々遠慮なんて必要ないだろ。
前にも言ったと思うけど、もう一度言っておく。
お前さんの背負ってるものの半分はオレが背負う。ずっと、一緒に」

だから、もう猫になんかなるんじゃないぞ。
そりゃあ猫のリナも可愛かったけど、オレは人間のリナが一番好きなんだから。



姿は人に戻っても、あたしはあたし、結構気まぐれ好き放題よ?
それでも呆れず付き合ってくれるのなら。
あたしは、あんたに飼われてやっても、いいわ。

胸の奥から込み上げる衝動に任せてあたしは、
「ガウリイ」と一声鳴いて、嬉しそうな唇に口付けてやった。